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「・・この思考の逆転をもたらすために聖霊が用いる大いなる学びの補助手段が、赦しである。」
『奇跡講座』まえがき から

                                   

  

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【質問】No.7 (org.#10: 11/06/2002)

自我はどのようにして生起したかについての複数の質問

自我の起源をテーマとするたくさんの質問が届いており、以下はその数例です。

i. 天国の愛が完全に満足の行くものだったというのなら、なぜ神の子はそこから離れ去ったという夢を見ようとするのでしょうか?

ii. が完璧で統一されたものであるなら、そして、完璧で統一されたを持っているというのであれば、どうして、そうした心の中に、分離や分割といった不完全な想念が起こり得たのでしょうか?

iii. いったん<贖罪>が受け入れられたとしても、再び、自我が選択されないということがどうしてわかるのですか?

iv. どうすれば、『奇跡講座』が「自我のパラドックスを解決する」と述べているような「体験」をすることができるのでしょうか?

【回答】

質問として提示されている上記のi、 ii、 iiiなどは、実際は<自我としての心>による声明であり、これは以下のように公言しているのです。すなわち、「私は自我が実在していると知っている。だから、どのようにしてそれが起こったかを、そしてまた、どうしてそれが再び起こらないとわかるのかを、私は今説明してもらいたい」という声明です。

この、「自我はどのようにして起こったか」という質問や、それが形を変えた全ての質問は、確かに、『奇跡講座』の学生達が最も頻繁に尋ねる質問です。これは、自分がどこから来たかを知りたがる自我にとってのみ自然な質問であり、それは丁度、子どもが両親に自分の起源を尋ねるようなものです。問題なのは、自我自体が自然なものではないということです。『奇跡講座』は、実相においては、自我は一度も生じてはいない、と教えています。ですから、『奇跡講座』という本の中に、自我の起源について知的に満足の行く答えを見つけ出せるはずがないのです。「どうしてそんな不可能なことが起こったのか」と尋ねる人々は、間違いなく自分のことを分離した個人的存在として識別していますし、この質問に答える人もまた、分離が本当に起こったということに同意することになります。更に、分離は一度起こったとなれば、際限なく起こり得ることになりますし、ある意味では現実に際限なく起こっているとも言えます。来る日も来る日も、私達には、自分の実相は自我であると信じるか、それとも神の子であると信じるか、という選択が差し出されているのです。ですから、分離が繰り返されるかどうかという疑問を持つことは、最初にそれが起こったと信じることで犯す間違いと同じ間違いを犯すことに他なりません。『奇跡講座』は次のように言っています。

「自我を定義することを求め、それがどのようにして生じたのかについて説明を求める者は、自我が実在すると信じている者に他ならない。彼らは、定義することによって、自我を実在するかのように思わせるそれらの言葉の背後に、その幻想性を確実に隠蔽しておこうとする。どのように定義したところで、嘘は真実にはならない。」 (C-2.2:5-3:1)

「自我は、このコースが与えない多くの答えを要求するだろう。質問の形をしているだけで答えることが不可能なものを、このコースは質問として認識することはしない。自我は、『不可能なことが、どのようにして起こったのか』、『何に対して、不可能なことが起こったのか』と尋ねるだろう。しかも、数多くの形で尋ねるだろう。だが、それには答えはない。ただ体験があるのみである。これだけを求めなさい。神学的理論によって、あなたの歩みを遅らせてはならない。」(C-in.4)

上記の引用箇所において『奇跡講座』が語っている体験とはの愛のことです。この体験は、赦しのプロセスを通して、愛の臨在についての自覚を阻む障害物が取り除かれることで達成されます(T.In.1:7)。実際のところ、『奇跡講座』の目的は、私達がこの体験を達成できるよう助けることにあるのです。