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「・・この思考の逆転をもたらすために聖霊が用いる大いなる学びの補助手段が、赦しである。」
『奇跡講座』まえがき から

                                   

  

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【質問】No.10(org.#16: 11/13/2002)

肉体の「実在性」ということについて

瞑想中に自分に向かって「私は肉体ではない。私は自由である」と言うとき、私は心の平安を感じます。ところがいったん目を開くと、ここにあるのは・・・やはり私の肉体です。このことで私は憤慨するというわけではありませんが、混乱します。自分自身を眺めるとき、私は美しい、と感じますが、もしかして私は自分が持っているものの真価を味わっているというよりも、再び自我を肥大させているだけなのではないか、と心配になります。これではまるでパズルです。このことに関してどう思われますか?

【回答】

『奇跡講座』は多くの箇所で、私達は肉体ではない、と教えていますが(例:レッスン199やその後に続く復習のレッスンなど)、同時にまた、私達には自分自身を肉体と見なすことへの強い執着があることも認識しています。イエスはそれについて次のように述べています。「自分を見るとき、あなたには肉体が見えるだろう。・・・・・・そして光がなければ、それは消えてしまったかのように見える。それでもあなたは、自分の手で肉体に触れてみることができるし、肉体が動いている音を聞くこともできるので、それがそこに存在すると思って安心する。そこにあるのは、あなたが望んでいる通りのあなた自身の映像(イメージ)である。それは、あなたの願望を叶えるための手段である。」(T-24.VII.9:1.3-6 太字による強調は筆者[ワープニック]による)

あなたが描写しておられるように、私達は肉体との一体感を超越するかのように思えるつかの間の体験をすることがあるかもしれませんが、それが長続きすることはほとんどありません。なぜなら、私達は全くそれを望んでいないからです。私たちにとっての「願望が叶った状態」というのは、私たちが自分を「一人の分離した特別な個人である自己」として見ている状態のことを言っているのであり、私達の肉体がそのアイデンティティーを肯定してくれています。

『奇跡講座』は、次のように述べています。すなわち、この限定された自己を自らのアイデンティティーとすることを (実相においてではなく、空想の中で) 選択した張本人は私達であるのに、私達はその決断の責任を受け入れることはしたくなかった。その理由は、私達の無意識の奥深くにうずめられている信念 (これは、でっちあげられたもので真実ではない) によれば、私達が単一性と、霊としての自らの真のアイデンティティーを攻撃することによって、この分離した自己を獲得したからである。そして、私達の自我によれば、それは背筋が寒くなるような恐ろしい破壊と殺害の罪ということになっている、と。ですから、いったん、自分が他の肉体のもとに生まれた肉体であるかのように見える状態になると、個別になった私達の存在というものを私達自身が作り出したなどとは、とうてい思えなくなります。両親が私達を作った、としか思えないわけです。そして、私達は、多くの宗教が教えているように、が私達の個人的な自己という、この特別な「被造物」に何からの形で関与している、とすら信じることができるようになり、これは私達の自我を多いに喜ばせるわけです。

ですから、『奇跡講座』は、私達が自分の肉体に非常に強い一体感を持っていることを承知していますし、自分を保護してくれると私達が信じているものを手放すことがどれほど恐ろしいことかについても承知していますから、肉体との一体感を私達に放棄させることを目標としてはいません。 (そうした放棄は、最後の最後に起こることです。) そうではなく、どのようにすれば私達の肉体に、自我が最初に与えた 「罪、罪悪感、恐れ」 といった目的とは違う目的を与えることができるか、その方法を教えているのです。聖霊の助けにより、肉体は赦しのレッスンを学ぶための媒体となります。そのレッスンは、私達と同じく肉体として目に見える存在である私達の兄弟姉妹との関係を背景として学ばれます。ですから、赦しのプロセスが完了して、もはや自分の心の中に罪悪感が無くなり、自分を罪悪感から防衛してくれる肉体を必要としなくなるその時まで、私達は自分自身も他の全ての人々も、肉体として見続けることになります。

あなた自身を美しいと見る、ということについてですが、『奇跡講座』が私達はいかに美しいかを語るとき (例:W-pII.313.2:2)、それは私達の物理的肉体や個々の人格について言っているのではないということさえしっかりと理解していれば、それに関して何も悪いことはありません。『奇跡講座』が言っているのは、私達全員の中に反映されているキリストの美しさのことであり、私達全員が霊として等しく共有する美のことです。