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「・・この思考の逆転をもたらすために聖霊が用いる大いなる学びの補助手段が、赦しである。」
『奇跡講座』まえがき から

                                   

  

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【質問】No.12 (org.#324: 12/03/2003)

「私の平安は長続きしないように思えます。なぜなのでしょうか?」

時おり私は、「平安を見ることを選択する」ということは、私にとっては一種の否認ではないかと感じるのです。何らかの状況を見て「平安を見ることを選択する」ことが自分にできる、ということは分かっています。そして、実際に私はしばしばそのようにしていますし、それにより緊張がゆるみ、私の平安の想念が安らかな気持ちを運んできてくれます。けれども時々、もうすぐ癒されるところまで来ていると思っていた継続中の困難な状況において、恐れや怒りや罪悪感といった感情がどっと押し寄せてきて、驚いてしまうことがあります。

そのような時、自分は平安を見ることにおいて、こうした感情を否認してきただけではないかという気がするのです。それらを癒すためには、少しの間、その感情の中に居ること、つまり、平安を見ようとするのではなく、少しの間、その恐れを真に感じ、平安ではない状態に自分の身を置くことが必要ではないかと思えるのです。もし私が不安を感じた途端に平安を見ようとしてしまえば、私は単にその恐れに覆いを掛けてしまい、自分が光のもとに運んで癒そうとしているものとは一体何なのか、よくわからない、ということになるような気がします。私は真に恐れを見つめて同時に平安でいられる地点にはいないのです。これで『奇跡講座』の道を歩んでいることになるのでしょうか?

【回答】

非常に正直で、非常に思慮深い質問だと思います。私たちの自我が、折りに触れ私たちをだまして、自分は平安を選んだのだと私たちに信じ込ませることができるというのは、本当のことです。その時、私たちは実は、自分のやり方を通すための方法を発見しただけだった、ということはあり得ることです。けれども、あなたの平安な瞬間のすべてを、単にそれらがまだ永続的なものではないからということで、まがいものとして退けることはしない方がよいと思います。私たちには、まがいものでない正真正銘の平安が自分にもたらすことになるもの — つまり、私たちが自分だと思っている自分との一体感が無くなること — に対する恐れがあるために、学びの進行にともない、私たちは平安と葛藤の間を揺れ動きます。何度も繰り返し生じてくる特定の困難な状況において、恐れがこれまでになく激しく思えるからといって、その事実が、過去において私たちがそれと類似した状況の中で味わい得た平安の体験を無効にするということはありません。

自我の思考体系も、聖霊の思考体系も、いずれも全的なものであり、どちらであれ、私たちがひとたびそれを選択したなら、私たちの過去の選択がどうであったかに関わりなく、その瞬間に私たちはその思考体系全体と完全に同一化します。そして、私たちはその選択に伴って訪れる感情を目一杯体験する、ということも、あり得ることでしょう。

もう一つ、覚えておくと助けになるのは、決して外的な状況が私たちに平安を失わさせるのではない、ということです。そうした状況は単なる象徴にすぎず、私たちが心の奥に押し込めていた罪悪感をその象徴の上に投影することを、私たち自身が選択しているだけなのです。ですから、恐れは、真実には、「自分は罪深い存在であり、神を攻撃したことにおいて有罪であり、懲罰を受けるに値する」という私たちの内側の知覚から生じているのです。どんな外的な状況も、私たちが自分のそうした想念を投影するためのスクリーンとなり得ます。ただ、そうした外的状況のうちのいくつかは、とりわけ強力で、赦しに対する抵抗性を備えたタフな象徴(!!)であるというだけのことです。

さて以上のすべてをふまえた上で、ここで重要なことを付け加えます。そうです、私たちが自分の罪悪感や恐れを正直に見つめることは、絶対に必要なことです。その後でやっと、それらを光に向かって解き放つことができるようになるのです。

「平安を選択する」というのは、罪悪感や恐れが表面化しそうになるたびに、そうした感情を再び押し込めておこうとして私たちが唱える単なる決まり文句ではないのです。そして真実を言えば、自我と一体感を抱いている限り、私たちの中には平安を欲していない部分が残っている、ということです。イエスは、レッスン185の冒頭でこのことをはっきりと述べています。「私は神の平安を欲する。この言葉をただ口にしたところで何にもならない。しかし、この言葉を本気で言うことはすべてに値する」(W.185.1.h,1,2)と。私たちは、自分が平安の代わりに選択したものを正視し、それが自分にどのような損失を被らせたのかを確認することによって、自ら平安を欲するようになることを学ぶのです。そして、自分の選択を裁くことなしに、自分が選んだものを正直に見つめられるようになるにつれ、やがて、真にそれに代わるもう一つの選択肢が、私たちにとってますます願わしいものになってくるのです。