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「・・この思考の逆転をもたらすために聖霊が用いる大いなる学びの補助手段が、赦しである。」
『奇跡講座』まえがき から

                                   

  

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【質問】No.13 (org.#956)

「私はどうしていつも被害者になってしまうのでしょうか?」

私は、自分が本当は神の平安など欲していないということも、罪悪感や裁きを持たずにこの事実を見つめられるようにイエスに助けを求める必要があるということも、理解しています。それでも、私の人生は葛藤に次ぐ葛藤のように思えるのです。私は自分の特別性を手放すのはいやだと思っていることを自覚していますし、このことについての助けを求めています。けれどもやはり、自分が「被害者モード」の中にはまり込んで動きが取れないでいるとしか思えないのです。どうしたらいいのでしょうか?

【回答】

『奇跡講座』を勉強しその原理を実践していくことによって達成されていくことの一つに、私たちの心の分裂がどれほど根深いものであるかが明らかにされていく、ということがあります。

まず、このコースは次のことを私たちに分からせてくれます。すなわち、私達一人ひとりの人生の脚本はそれぞれ非常に大きく異なっているように見えていますが、概して(イエスの生涯などのような、少数の例外を除いて)誰の人生も、第1幕「誕生」、第2幕「悪戦苦闘」、第3幕「死」という、かなり惨めな3幕に要約できる、ということです。これは、およそ、正気の心が自分のための筋書きとして選びたいようなものではありませんし、この筋書きの中では、確かに、私たちは、いつでも被害者となっています。

もう一方で、『奇跡講座』は、私たちにはこうした経験を変えられる力があると、教えています。内なる教師を交替させることで、私たちは、以上のような筋書きの代わりに平安を見ることもできる(W.pI.34)、というわけです。もし私達が、自分にこの力があると信じるなら (そして、私たちの中には、そう信じている部分があるはずです。そうでなければ、このコースに惹かれることはないはずですから)、それなら、私たちはただ、さっさとこの内的変更を実行して、気持ちがよくなって、ずっとそれを続ければいいのに、どうしてそうしないのだろう、と疑問に思うのは自然なことです。

けれども、『奇跡講座』は、次のように私達に告げることで、この疑問に答えています。「自らを有罪と見なす者はみな、神に対する恐れを持たずにはいられない」(T.30.VI.4:4)と。換言すれば、私たちの心の中に、わずかでも罪悪感が残っている限り、私たちは神を恐れ続けます。(つまり、私たちを神に近づけることになる内的変化を、恐れ続けます。)そして、私たちの物理的存在とこの物質の世界の実在性を信じる信念をわずかでも維持している限り、私たちの心には必ず罪悪感が内包されます。罪悪感とは、私たちが自分という存在を神から盗み取ったので、そのようなことをした私達は罰せられて当然であるという、無意識の確信です。

以上のような理由から、『奇跡講座』を学んでいる私たちには、自分の旅路が遅々とした困難なもので、挫折に満ちているように思えるのです。

私たちはこの事実をごまかす巧妙な方法を見つけ出すことはしましたが、これまでの私たちの人生全体が、私たちを「被害者モード」に閉じ込めておくための手の込んだ計画となり果ててしまいました。その目的はまさしく、平安や、神の愛 — 私達が自分にとっての最大の脅威と知覚しているもの — へと二度と再び戻ることのないようにすることでした。

私たちがイエスから求められていることを実行し始め、自分が保持している価値観の一つ一つを疑問視し始めると(T.24.in.2:1)自分が本当はどんなに神の愛に戻りたくてたまらないのか、そして、分離してしまったかに見える状態の中でどんなに苦しんできたか、ということを感じ始めます。けれども、一つの思考体系全体を取り消すというのは時間のかかることであり、自我が反撃もせずに降参すると思ったら大間違いです。

ですから、「被害者モード」にはまり込んで動きがとれないというあなたの経験は、疑いもなく苦痛なことではありますが、決してあなただけに限られたことではありませんし、実はそれは問題でさえないのです。

それはあなたがまだ神の愛を恐れていて、自分の心にはその愛を選択する力があるということも恐れている、という事実の単なる反映にすぎません。ですから、それについて、あなたは何もする必要はありません。そうではなく、ただ、それを役に立つ情報として眺めればいいのです。実は、自分が被害者のように感じられる時にはいつでも、私達はただそれに注意を払った上で、「ああ、やっぱり私はまだ恐れている。そして、それはそれでかまわないのだ」と言うだけでいいのです。こうすることで、私たちは自分自身を赦すことを実践することになり、それが最後には、自我の「絞め技(わざ)」を緩めることになります。

私たちが故郷への旅路で前進するための秘訣の一つは、次のような発見をすることです。すなわち、自我にはずる賢い巧妙さがあるけれども、私達自身が何らかのものごとを一大事と見なして大騒ぎすることさえしなければ、自我も、そのことについてだけは自らの手段に役立つようにゆがめて使用することはできない、ということです。