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「・・この思考の逆転をもたらすために聖霊が用いる大いなる学びの補助手段が、赦しである。」
『奇跡講座』まえがき から

                                   

  

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【質問】No.16 (org.#24)

輪廻転生についての質問

『奇跡講座』は、輪廻転生について語っているところがあるように思えます。もし私達が真に死ぬことはなく、ただ「この肉体を横たえる」だけだとすれば、私達は別の肉体へと戻ってくるということなのでしょうか、それとも別のレベルにおいて私達のレッスンを続けるということなのでしょうか?

【回答】

たしかに、イエスは『奇跡講座』の中で、輪廻転生に言及しているように見えるところがありますね。しかし、イエスが言っていることを理解するためにも、あなたの質問に答えるためにも、私達が覚えておかなくてはならないことがあります。それは、このコースの中で、イエスは常に心のレベルにおいて私達に語っているということです。心のレベルだけが、真の学びが学ばれる唯一のレベルなのです。更に言えば、イエスは、私達の心の中の、自我か聖霊か、憎悪か愛か、死かいのちかの二者択一の選択を下す主体となる部分に向かって語りかけています。

「しかし、理解は心に属するものであり、心だけのものであるということを、思い出しなさい」(T.15.VI.7:5)

『奇跡講座』の中でイエスは、この「人生」は一つの夢であること、この世界は幻想であり、肉体はもともと生きてはいないので死ぬこともないということ(T.19.IV.C.5:2,3,4,5)、そしてまた、私達の時間についての体験も、単にその幻想の一部に過ぎないといったことを教えています。私達の「夢」は、常に自分の選択を反映しており、唯一それだけを反映しています。すなわち私達が、自らの<分離>を信じる信念と罪悪感とを強化するという、自我の目的を選んだのか、それとも、赦して、<分離>の信念を取り消すという、聖霊の目的を選んだのかを、反映するということです。したがって、夢が呈する形態はまったく問題ではありません。その形態が変化したときでも、その学び、すなわちこの二者択一は、心の中で続いて行きます。

ですから、輪廻転生を示唆するように思える一節を読んでいる時には、夢の中での私達の経験のレベルでそれを理解することができるだけではなく、まだ赦していない事柄を再訪するという概念としてそれを理解することもできます。ここで、役に立つ考え方としては、「同時に存在する」複数の夢というふうに考えてみたり、あるいはまた、どの部分にも全体が見出せるホログラムというモデルを使ってみるといったことが挙げられます。心が、幾つもの夢を、またはホログラムの複数の局面を「再び訪れる」とき、それを、幾つもの別の「生涯」を経験していると見なすことができる、ということです。

イエスは、「教師のためのマニュアル」の中で、彼のコースを学ぶのに、輪廻転生という概念を信じることは要求されない、と教えています。実際のところ、イエスは、この概念の価値は、唯一それがコース学習者にとってどれほど「助けになるか」、つまり慰めになるかに比例すると言っています。

「究極の意味においては、輪廻転生は不可能である。過去も未来も存在しないのだから、肉体をまとって生まれてくるという概念自体が、一度だけ生まれてくるのか、何度も生まれてくるのかに関わりなく、何の意味もない。だから、真の意味においては、輪廻転生は真理ではありえない。」(M-24.1:1,2,3)

「輪廻転生は、いかなる状況下においても、今、対処すべき問題とはならない。・・・・しかし確かなことは、救済への道は、輪廻転生を信じる者でも信じない者でも見つけ出せる、ということである。したがって、この概念をこのカリキュラムにとって必要不可欠なものと見なすことはできない。現在を過去の観点から見ることには、常にいくらかの危険が伴う。しかしまた、生命(いのち)と肉体は同じではないという概念を強化する考えは、常にいくらかの善を含んでいる。」(M-24.2:1,5,6,7,8)

私達が、時間は直線的なものではないという事実を受け入れることができるようになったとき、輪廻転生という概念は無意味となります。しかし、自分達が分離した個人の集まりであると信じている間は、レッスンは、私達が受け入れ、理解することのできる何らかの形で続いて行きます。つまり、私達の実相は霊であるということ、そして、私達はこれまでも常に「神の内なる故郷にいながら、流刑の身となった夢を見て」きただけだ(T-10.I.2:1)ということを、真に修得するまではレッスンは続く、ということです。そして、そのようにして<贖罪>を自分自身に受け入れたときには、全ての夢が終息します。