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【質問】No.28 (org.#1015)

抵抗感と、意欲のなさ - この違いは何でしょうか?

抵抗感を正視してそれと戦わないということと、「意欲がない」ということとの間の違いは何でしょうか? 私はこのことについて少し混乱しています。

私はレッスンを行うことに対する抵抗感を正視した上で、何もしないでいるべきなのでしょうか? それとも、自分に意欲がないことを見てとり、それを克服すべきなのでしょうか?

私は自分が時折、他にやりたいことがあるために、レッスンを行うことに抵抗しているのを感じます。ですから自分が抵抗していることは認識しているのですが、それでも、これはやはり、私に意欲がないということになるのでしょうか?

【回答】

実践面から見るなら、抵抗感と意欲のなさは同じものです。どちらも自我の思考体系を維持し、心が聖霊を選ぶのを邪魔するものです。

重要なことは、抵抗感や意欲の無さを自覚して、その奥に愛に対する恐れが潜んでいることを確認すること、ただしその際にそうした自分自身を裁かないようにすることです。

私たちの恐れの奥深さを知っているイエスは、私たちからの抵抗を予測して「ワークブック」序文の中で次のような指示を与えています。「あなたが激しく抵抗するような概念もあるかもしれない。そうしたことは一切、何の問題にもならないし、その概念の効力を減じることにもならない。・・・・それらの概念にあなたがどう反応しようとも、とにかくそれらを使用することである。それ以上のことは何も要求されていない。」(W-in.9:2-5)

この一節に暗示されているのは「私たちは抵抗感に驚くべきではない、それと戦わず、それを裁かず、ただ指示された通りに練習しなさい」ということです。

練習を抜かすことは、「愛の現存についての自覚」(T-in.1:7)へと戻っていくのを遅らせ、単に時間を無駄にしているだけのことです。時間というものは、遅延のための戦術として作られたものですから、私たちには、自分で時間をかけようと選択しただけの時間があるのです。イエスは「教師のためのマニュアル」の中で次のように言っています。「・・・だが、それもみな時間の問題である。誰もが最後には[<贖罪>を受け入れるようにという呼びかけに]応えることになる。」(M-1.2:8-9)

私たちは、自分自身の経験に基づいて、「愛に抵抗することは非常に苦痛に満ちたことだ」と確信するようになったとき、次第に抵抗することをやめるようになっていきます。そうすると、抵抗感や意欲のなさは、意欲や動機へと入れ替わります。私たちは苦痛(自我)を手放して、平安(聖霊)を受け入れるようになっていきます。

そうなるまでの間は、抵抗感や意欲のなさについて、私たちがなすべき唯一のことは、それを否認したりそれと戦おうとしたりせずに、結果は確かだと知っている存在(T-4.II.5参照)が持つ忍耐力を持って、待つ、ということだけです。