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『奇跡講座』まえがき から

                                   

  

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【質問】No.33 (org.#108)

特別な愛と真の愛の違いについて

私は『奇跡講座』を学び続けているうちに、この世界において一般に「愛」と呼ばれている感情は、このコースの中で言われている「愛」とは全く違ったものだということを理解し始めています。実際のところ、多くの場合に、私の自我は「愛」という概念を、多くの非常に機能不全な思考や行動を覆い隠すために用いている、ということを私は発見してしまいました。私たちがこの世界の中で愛として理解しているものと、『コース』の中で言われている愛とはどういう関係にあるのでしょうか?そして、それをどのように用いれば自分の人生を導く指針とすることができるのでしょうか?

【回答】

このコースの中で言われている「愛」と、この世界において一般に「愛」とよばれている感情との間には違いがあるというご指摘は、まったくその通りです。両者は同じものではありません。

この世界の愛は、常に、『コース』が「特別な愛」と呼ぶものであり、それは<特別な関係>の根幹を成すものです。それは、『コース』が述べている愛とは正反対であるというだけでなく、実際のところ、憎悪を覆い隠す仮面なのです。

からの特別な愛を望むという密かな願望から生まれた特別な関係の中で、自我の憎悪が勝利をおさめる。なぜなら、特別な関係とはの愛の拒絶であり、からは拒まれた特別性を、自己のために自ら確保しようという試みだからである。」(T-16.V.4:1,2)

私たちは、人であれ物であれ自分が<特別な関係>を形成している相手に対しては、密かに次のように言っていることになります。「は私が望んでいるような特別な愛で私を愛してくれなかった。だから、私は自分が生きるために無くてはならないと思う特別な愛を、あなたを使って手に入れることにする」と。

したがって、私たちが「愛」と呼んでいるものは、の愛の代替です。それだけでなく、『コース』は、それは憎悪であると私たちに告げています。

「・・・あなたは、限定された形で自分が関わる兄弟の誰のことをも憎んでいる。」 (T-21. III.1:3)

この「憎悪」は、私たちが互いに異なっていて、不完全であり、愛に飢えている、という間違った知覚に基づいています。

<特別な愛の関係>においては、お互いの必要が満たされるための合意が形成されていて、それによって私たちは、からの分離と見えるものにより残された虚空を満たそうとします。そして、「求めよ、されど、見つけることなかれ」(T-16.V.6:5)という自我の命令に忠実な、このの愛の代替は、私たちがそれを上手く機能させるためにどんなに努力したところで、決して私たちの必要を満たしてはくれません。最も充実した「愛」ですら、最後は死で終わることになります。

『コース』が私たちに何をするように勧めているかと言えば、自分が関わっているすべての<特別な愛の関係>を、この新しい観点から正視するように、ということです。

これは非常に衝撃的なことに思えるかもしれませんが、そうすることによって、私たちは、次のような新たな目的と新たな解釈を受け入れてみてもいいという気持を持てるようになります。

「神聖な関係は、それとは違った前提から始まる。各々がすでに自分自身の中を見て、欠乏がないことを認めている。自らの完成を受け入れているので、自らと同じく全一な他者とつながることによって、自らの完成を延長させる。彼には、これらの自己の間の相違は目に入らない。相違とは肉体のみに関するものだからである。したがって、彼は自分が手に入れたいと思うようなものを、何一つ見ることはない。彼自身の実相は真理であるのだから、彼がそれを否定することはない。」(T-22.in.3:1-6)

憶えておくべき重要なことは、<特別な関係>を形成することは罪深いことなのではなく、普通のことであり、それが取り上げられてしまうわけではない、ということです。実際のところ、もし私たちがそれらを聖霊に預けて<神聖な関係>へと変容させてもらうなら、それらは私たちの人生において有用なものとなり得ます。

聖霊はあなたから特別な関係を奪うことはせず、それらを変容させようとするだけであると、私は繰り返し述べてきた。」(T-17.IV.2:3) 

このようにして、他の人との間に私たちが経験する愛は、夢の中での愛を反映するものとなり、の愛の代替ではなくなります。