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「・・この思考の逆転をもたらすために聖霊が用いる大いなる学びの補助手段が、赦しである。」
『奇跡講座』まえがき から

                                   

  

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【質問】No.36 (org.#807)

天災を目の前にして


現在、私たちは、東北関東大震災という未曾有の大災害の渦中にあります。みなさまも『奇跡講座』を学ぶ者として、こうした状況をどのように捉えたらよいのか、いろいろと考えておられることと思います。以下、私たちが今遭遇している状況に該当するところもあるQ&Aとして、2005年に巨大なハリケーン・カトリーヌがメキシコ湾一帯に大災害を引き起こした直後にFACIMに掲載されたQ&A#807から、その後半をご紹介します。




【質問】

ハリケーン・カトリーヌに襲われた地域で続いているあらゆる苦痛や受難を目前にして思うのですが、私たちがどの「夢」または「幻想」の中に生きることになるのかといった決断はどのようにして為されるのでしょうか?ある人たちは王や女王として生まれ、他の人たちは、例えばスーダンにいる人たちや、現在ハリケーンの被災者となっている人たちのように、非常に惨めな人生を生きています。このコースのどこかに、その答えがあるでしょうか?

【回答】



私たちはなぜ、現在、自分が経験している特定の人生や役割を選択したのか、その説明としては、『奇跡講座』は、次のように述べているだけです。私たちは、どんな形であれ自分自身と他者とを区別しておきたいと思い続けています。そして、そうすることによって、分離と罪悪感を実在のものにしたいと思い続けています。そのために、時には被害者を演じ、時には加害者を演じなくてはならないかもしれませんが、自我の「夢」の中では、選択肢は実際のところこの二つしか存在しない、ということです。(T.27.VII.14:4)

この形態の世界の中になぜ差異が存在するのかを気にかけるということは、こうした差異のすべてを、重要で実在性のあるものにしようとする自我のゲームのまっただ中に入り込んでいくことに他なりません。そして、さらに大きな間違いとなるのは、形態のレベルに存在するように見える様々な差異や段階が、それぞれの心が経験している苦痛と罪悪感の程度の違いを真に反映していると信じることです。というのも、この世界が自分の故郷だと信じる者は誰もみな、大きな痛みの中にいるからです。このことを自覚しないでいられるように、人がどんな防衛を行なうとしても、この事実に変わりはありません。(W.pI.182.1-3)なぜなら、苦痛も罪悪感も決してこの世界 ―すなわち、結果― から発しているのではなく、唯一、世界についての私たちの解釈から発しているからです。そして、その解釈は、自分の心の中の、どちらの教師の声に耳を傾けることを自分が選択したか、すなわち、自我か聖霊か、どちらを選んだかによって、決まります。そして、この世界の中のどんなものごとも、私たちを、自分の心の中にある苦痛と罪悪感から解放してはくれません。それができるのは赦しだけです。

愛を裏切り、愛を攻撃したという罪悪感にまつわる心の痛みは途方もなく大きく、とても頭で理解できるようなものではありません。ですから、私たちはみなそれぞれ、その罪悪感に何とか対処しようとして、不適切でうまく機能しない自分流のやり方でもがいています。そして、決して、その実在性について疑問を持つことはしません。ですから、自分自身を、どんな形であれ一人の被害者として見ることを選択するということは、そのような想像上の罪悪感をあがなおうとする私たちのやり方の一つなのです。

ですから、私たちが無条件の愛によってあらゆる人を受け入れることができるようになる前に、まず、自分自身を初めとする全ての人々を、慈しみをもって眺めることが出来るようになることを学ぶ必要があります。つまり、誰もが間違った選択をし続けていること、誰もが依然として破壊や住む家の喪失や死といったことが実在すると信じたいと思っていること、誰もが自分以外の何かや誰かにすべての苦痛や受難の責任があるとすることで自分が救済されると信じていること、換言すれば、誰もが自分の外側、つまり自分自身の心の外にその原因を見ることを必要としている、ということに対し、慈しみの気持を抱くということです。

では、そうした明らかな苦痛や損失や必要に直面した時、私たちはどのように対応すべきでしょうか。イエスが求めているただ一つのことは、私たちが赦すことを学ぶ、ということだけです。そうすれば、その他の必要なことは、すべてその後についてくる、ということです。私たちの責任は、この世界を変えることではなく、自分の目がこの世界の中に何を見るかという自分の知覚を導いてくれる教師を変更することだけです。(T-21.in.7-12)もちろん、ハリケーンから直接の被害を受け、家族や住まいや生活手段、財産などを失った人々に対する気遣いや、支援の気持を、私たちが具体的に表すことができる方法は、たくさんあります。しかしながら、イエスが気にかけているのは、私たちが目前にしている出来事にどのような特定の形で対応するかという点ではありません。そうではなく、この世界の中で助けを提供するために私たちが何を行なうことにするにせよ、その内容がどういったものか、という点です。心に留めておくべきことは、私たちが何を行なうにせよ、もしそれが、被害者を見ること、従って、加害者となっている勢力や人々を見続けることへとつながる自我の観点からくるものであれば、それは一つの攻撃であり、分離の想念に活力を与え続ける、ということです。しかし、もし私たちが正しい心の状態がもつ観点から行動するならば、何を考えどんな言動を取るとしても、それは癒しという結果につながるでしょう。なぜなら、そのとき、分離していて、特別で、「無罪潔白」である者にならなくてはならないという自分自身の必要を、私たちは脇に置いているからです。

このコースの中には美しいイメージがたくさんありますから、その中からこの話題と関連のある箇所をいくつか引用することで、この回答を締めくくりたいと思います。これらの引用文は、イエスの観点から見ると、私たちの役割とは何なのか、私たちの安全はどこにあるのか、といったことを、私たちに思い出させてくれますし、私たちの兄弟とはすべての人のことであり、被害を受けているように見えている人々だけではない、ということを心に留めるのを助けてくれます。

「あなたの家は、あなたの兄弟の健やかさと幸福と無罪性の上に建てられ、が彼に約束したすべての上に建っている。その代わりにあなたが交わした秘密の約束は、どれ一つとして彼の家の土台を揺るがしたことはない。風に揺さぶられ、雨にたたきつけられても、びくともしない。たとえ世界が押し流されようと、この家は永久に立ち続ける。なぜなら、その強さはその中だけにあるのではないからである。それは安全の箱舟であり、神の子神ご自身の中で永遠に安全であるというの約束に支えられている。・・・・・・・世界のどこにいても、私に危険はない。・・・・・・あなたが共にいてくださるので、あなたの子はどこにいても安全です。御名を呼ぶだけで、自分の安全とあなたの愛を想い起します。その二つはひとつのものだからです。・・・・・・・・そうして私たちは真理の中に居る。どんな嵐も、私たちの家である聖域を襲うことはできない。の中で私たちは安全である。・・・・・・・「私はの内に休らう。」この思いが、全くたじろぐことなくあなたを運んでゆき、嵐や争乱を通り抜け、不幸や苦痛、損失や死をも通り過ぎ、の確かさへと連れてゆく。それが癒すことのできない苦しみはない。それが解決できない問題もない。そしての内に休らうあなたの目前で、目に見えるものすべてが真理へと変容していくだろう。・・・・・・・・・あなたはの内に休らいでおり、吹きすさぶ憎悪の嵐に世界が引き裂かれていても、あなたの休息は少しも乱されない。・・・・・・・それでも、この休息の場所はいつでもそこにあり、あなたはそこに戻ることができる。そしてあなたは、荒れ狂う嵐よりも、その中心にある静けさを自覚するようになる。この静かなる中心ではあなたには何もすることはなく、あなたに与えられる忙しい仕事の最中でも、その静けさはあなたと共に在り続け、あなたに休息をもたらすだろう。」
(T-28.VII.7:1-5; W-pII.244.h;1:1-2;2:2-3; W-pI.109.3:1-4;4:2; T-18.VII.8:1-3)