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【質問】No.42 (org.#864)

聖霊に助けを求めても鎮まらない怒りについて

 

私は自分の怒りを聖霊の目を通して見られるようにと聖霊に頼みますが、その後も私の気持は一向に変わりません。これはどうしてなのでしょうか。

聖霊に求める前に感じていたのと同じ怒りを相変わらず感じるのです。少しも良くなっていくようには思えません。毎日が同じなのです。すごい怒りを感じ、聖霊に助けを求めますが、依然としてその前に感じていた怒りや、情緒不安が続きます。自分の怒りや否定的な感情から少しも救われないように思えます。

『コース』の中で約束されていることはすべて、何の実用的価値もないように思えます。このコースを勉強することは、きわめて不愉快で、気持を不安定にし、人生を生きていく上で精神的に不健全な道ではないか、とさえ思えてしまいます。

 

【回答】

聖霊の目を通して自分の怒りを見る、というのは、何よりもまず、自分が怒りを手放せないことについて罪悪感を抱かない、ということを意味します。自分の怒りや否定的な感情について腹を立てることにより、あなたは、本当は自我が持っていない力を、自我に与えてしまっています。

もちろん、怒りとは自我のものです。けれども、『コース』のどこにも、「怒ってはいけない」とは書いてありません。私たちはただ、怒りを正当化しないようにと、求められているだけです。

ですから、このコースを実践するというのは、自分が不満を手放せないことを発見した時に、どうすれば、自分自身に対してもっと優しくなれるかを学ぶ、ということを意味しています。不満を手放せないのはあなた一人ではなく、大勢の仲間がいます! それは簡単にできることではありませんし、私たちは、それを完璧に行うように求められているわけでもありません。怒りを手放そうとするあなたの意欲そのものが、霊性に役立つものなのです。その意欲の周りに「影の部分」があるのはごく普通のことであり、充分に予測されることです。(T-18.IV.2)もしあなたが、このコースが求めることすべてを即刻、完璧に為しえるのであれば、実のところ、あなたにはこんなコースは必要ないことになります。

私たちは皆、不満を手放すことに対し、途方もなく大きな抵抗感を持っています。不満は、私たちの心の中の自我以外の部分に存在している愛を隠蔽する、という自我の目的に役立つものだからです。それは、何らかの形で肉体に関する事柄に没頭することが、私たちの霊としての自覚を妨げるのに役立つのと同じです。私たちは自分の心の中の純粋な愛と、霊としての自らの真のアイデンティティーとを極度に恐れています。それを受け入れることは、個人としての自分のアイデンティティーの終焉を意味するということを、私たちは知っているからです。

ですからイエスは、彼の用意した道に沿って、私たちをゆっくりと優しく導きます。彼の道は、私たちが、どの瞬間においても、自分に可能な限り罪悪感や恐れを減少させることに焦点が置かれています。だからこそ、あなたは、自分がいまだに怒りを感じているからといって、自分自身に対して辛く当たったり、イエスや彼のコースに対して批判的になったりしないようにすることが、とても重要なのです。その怒りをあなたと共に見てくれるようイエスや聖霊を招待することは、あなたが以前ほど苛立ったり腹を立てたりしなくなるのを助けます。それがゴールです。つまり、自分の自我が動き回っているところを見ても、それによって心を乱されることなく、単にじっと見守ることです。それができれば、必ずもっと平安になり、内的な慰めを得られるようになるはずです。そのときあなたは、あなたが怒りを手放すか手放さないかということとは関係なくあなたを愛している存在と共に、自分の時間を過ごすことになるからです。