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【質問】No.45 (org.#42)

神はこの世界に介入するのかどうかについて

 

『奇跡講座』が「」と言うとき、私たちに応答してくれるような神のことを言っているのでしょうか? つまり、私たちの日々の活動といった面で、私たちの物理的・世俗的存在に変化や違いをもたらすような神なのでしょうか? 

このコースでは、はじめは、私たちは不変であると言っているようですが、あとになると、私たちが進歩するにつれて生じる様々な変化について示唆しています。私たちが変化することが可能なのかどうかが、私にはよく分かりません。もし私たちが不変のものであるなら、なぜ、わざわざ何かをしなくてはならないというのでしょう? どうせ、私たちはもともと、あるがままの存在だということになるわけですから。

 

【回答】

『奇跡講座』は多くの箇所で、人格的表現を用いてについて記述していますし、それらによれば、はあたかも子供たちとは区別される存在であり、私たちを見守り、気にかけている父親であるかのようです。

けれども、このコースの基礎となる形而上学的教義を理解する時、に関するこのような人格的、人間的な言及は、文字通りのことを意味しているはずがないということが明らかになってきます。それらは、「この[有限の]心が、自分が存在すると考えている[分離した]状況の中で、この心に理解できる言葉を使用」(T-25.I.7:4)して、私たちがについて抱いている誤った知覚を訂正しようとする試みを表わしています。私たちの自我は、のことを、怒りと復讐心に満ちた父であり、私たちがに対し行った攻撃のゆえに私たちを処罰しようとしている存在であると解釈しているので、このコースは、この知覚を訂正しようとしているのです。

このコースは、「私たちの限定された有限な心に向かって、の本質やの被造物や実相などについて説明する」といった不可能な課題には、ほとんど時間を費やしていません。「全体性を表わす象徴などない」(T-27.III.5:1)からです。ただし、ごくわずかですが、それを試みている箇所があります。たとえば「ワークブック」には以下のような記述があります。

が創造するものはから離れてはいない。ここまでがで、ここからはから分離したが始まるといった境目は、どこにもない。」(W-PI.132.12:4)

また、全ての概念や象徴を超越した存在を言葉で捉えることは不可能であると認めて、次のように述べています。

「一体性とは、簡潔に言うなら、「、在り」という概念である。そして実存のうちに、はあらゆるものを包含する。心の中には以外に何もない。私たちは「、在り」とだけ言って、その後は口をつぐむ。なぜなら、その智識の中では言葉は無意味だからである。それを語る唇はなく、心の中には、今自分が自分以外の何かを自覚していると感じるほどに、ほかの部分から区別された心の一部分というものもない。心はその源とひとつに結ばれている。そしてその源自体と同様に、それはただ在るのみである。」(W-PI.169.5)

ですから、「すべてのものの中のすべて」(T-7.IV.7:4)であるが、神自身の一部に対し、それがあたかもから分離しているかのように働きかけるということはあり得ません。そして、に「Him」という人称代名詞を用いること自体が、実相においては完全に抽象的なものである一切の本源に、人格的な性質を押しつけることになります。したがって、このコースは、を、この世界の中で自分の子供たちと交流するような存在として描写してはいません。そのような役割は、神を代弁する声である聖霊に与えられており、にはない象徴的なはたらきは聖霊が担っています(T-5.I.4:1)。しかし、この世界はその全部が、概して自我の幻想の投影であり、実在性の無いものですから、実際には聖霊が介入するような世界自体が存在しません。存在しているのは、そうした世界があると信じている心だけなのです。そして更に言えば、神を代弁する声は、心の中においても、いかなる積極的なはたらきもしません。それは私たちに、自分自身やという一度も変化したことのない存在の真理について、「ただ思い出させるだけ」(T-5.I.7:4)です。

『奇跡講座』はまた、を「不変なるもの」(W-pI.112.2:2)、「無形性そのもの」(W-pI.186.14:1)にして「不変なるものだけ」(T-6.IV.12:4)を創造する存在であると言っています。ということですから、が、形態の世界の中で、変化や変更をもたらすことに関わるということは考えられません。

そしてこのことが、私たちの不変性について尋ねておられるあなたの二番目の質問につながっていきます。

霊としての実相においては、私たちは何も変わっておらず、罪なく完璧なもの、と一体のものです。これが、<贖罪>の原理であり、『奇跡講座』全体を通して、幾度となく繰り返されていることです。そして、この意味において、私たちは真に不変なのです。

けれども、これは明らかに、私たちが自分自身について信じていることや体験していることとは違っています。ですから、このコースは、実在であり真実であることをただ主張して、それだけで話しを切り上げるということはしないのです。それだけだったら、自分たちの間違った信念の泥沼の中でもがいているかに見える私たちにとって、何の助けにもなりません。

だから、このコースは、私たちが自分の居場所だと思っているその場所で、私たちを受け入れてくれます。つまり、私たちが自分たちのことを、互いから分離した物理的な存在だと思っていることを認識してくれていますし、私たちが時間と空間の世界の中に肉体として生きていて、自分たちに制御できないように見えるいくつもの勢力に対抗して悪戦苦闘している存在だと信じているということを、わかってくれています。その上で、そこから抜け出す手段を提供してくれるのです。つまり、私たちが自からを閉じ込めてきた、この無分別で無意味な信念の迷路から抜け出る道を見つけるための手段 ――聖霊により導かれる赦し―― を、私たちに提供してくれます。

しかしそれは、その迷路がほんの一部でも実在しているからではなく、それが実在しているとただ私たちが思っているからにすぎません。私たちが自分をキリストという自らの真の実相とは違ったものに変えてしまったと信じているあいだは、私たちには、変化するように見えるプロセスの中を進んでいくことが必要です。それは、私たちが自分のアイデンティティーに持ち込んだと信じている変化を取り消すプロセスであり、「自分は実相においてはまったく何も変わっていなかったし、一度も後にしたことのない故郷、いつでも自分がいたところである天国に戻ってきただけだ」と私たちが悟るまで続くプロセスです。

ですから、これは為されたことを白紙に戻すプロセスであり、本当の意味で何かを行うプロセスではありません。そして、私たちの間違った信念を白紙に戻すこのプロセスにおいて私たちが体験するかに見えるどんな変化も、私たちを天国から追放したかに見えたあの原初の「変化の想念」と同様に、幻想にすぎないものです。けれども私たちが、変化というものが可能であり、実在するという信念を持ち続けているあいだは、私たちは変化というものを体験することになります。そして、その間、私たちが真に選ぶことのできる選択肢は次の二つだけとなります。すなわち、(1)罪悪感や分離を補強し、私たちの真の故郷から更に遠く離れたところへ私たちを連れていくかに見える「変化」を求めるか、それとも、(2)この世界において私たちが関わる関係を背景として赦しを練習することで生じる「変化」、すなわち私たちが故郷に帰ることを可能にする「変化」を求めるか、のどちらかです。