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『奇跡講座』が「必修科目」であるという言葉の意味

 
このコースの序文で、これは奇跡についてのコースであり、「必修科目である」と述べられていますが、この言葉は、もともとは、もっと大きなメッセージの途中で語られた一節の中の一部でした。そしてそのメッセージはヘレンに宛てられたものであり、実際には、一種のユーモラスなやりとりでした。

『奇跡講座』の書き取りを始めてまだ数週間という頃、ヘレンはイエスに対し、「私は自分がこのコースを望んでいるかどうかわかりません。いずれにしても、察するところ、これは選択科目ですね」と言いました。大学のカリキュラムにおいては、卒業するのに必要な特定の必修科目がいくつかあり、その他に自分の興味で選べる選択科目がありますから、彼女は、そうした時の状況を思い浮かべながらこのように言ったのです。つまり、ヘレンはイエスに、「このコースは必修科目ではなく、選択科目だと思っている」、つまり、「私には、いつでも、それを受講しないという選択をすることができる」と、ちょっと生意気なことを言ったわけです。そうして、それに対するイエスの返事が、「いや、ヘレン、残念ながらそうではない。これは必修科目だ」というものだったのです。つまり、「これは、ビルとあなたが、お互いや人々との関わり方において別の道を見つけたいと誓ったときに、求めたものであり、これがあなたたちへの答えである。だから、これは必修科目である」と言ったのであり、これはヘレンとビルにとっての必修科目だという意味だったのです。

こうした背景が取り去られると、この言葉はまるで、すべての人々が『奇跡講座』を必修科目として受講しなければならないと言っているかに聞こえてしまいます。それでは、まったく真実からかけ離れてしまいますし、このコース全体の精神とはまさに正反対を述べていることになります。

「教師のためのマニュアル」の最初のページを開くと、すぐに次のような記述が見つかります。『奇跡講座』は、何千もある普遍的なコースの内の一つにすぎず、様々な形をした普遍的なコースのすべては、何らかの形で、「神の子は無罪であり、彼の無罪性の中に救済がある」という同一の主題を内包している、というものです(M-1.4:1-2)。このことは、教義や形態に関わりなく、救済について教えるすべての真実の教えの中では、必ず述べられていることです。ですからこれは、「霊的な特別性」という罠に、このコースの受講生たちが陥らないようにするために、非常に重要な考え方です。そして、その罠とは、自分は『奇跡講座』の受講生であり、それゆえに自分は特別であり、他の誰にも優る、と思ってしまうことです。

『奇跡講座』は独特のコースであり、現代のものであれ古くからものであれ、他の霊性の道とは全く違っている、ということだけは支障なく言えると思います。このコースは、洋の東西を問わず、他のどんな霊性の道も述べていないようなことを述べており、それが提示される枠組みとしての形態も、他の教えとはきっぱりと異なるものですから、それを根拠にして、このコースが「ユニークである」と描写することは、妥当なことだと思います。しかし、「他と異なる」とか、「ユニーク」だと言うことができるからといって、このコースが他の道より優れているとか、劣っているということにはなりません。また、そのことにより、その他の思考体系が間違っているということにはなりません。

ですから、もしも私たちがこのコースを自分の道だと感じるなら、私たちにとっては必修科目ということになるでしょう。だからといって、それが世界全体にとって必修科目だという意味にはならないということを、私たちは認識し、常に覚えておくことが必要です。