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「・・この思考の逆転をもたらすために聖霊が用いる大いなる学びの補助手段が、赦しである。」
『奇跡講座』まえがき から

                                   

  

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【質問】No.46 (org.#339)

ワークブックのL15の「光の体験」と、L157について

 

『奇跡講座』のワークブック中の記述に関して、私が長いあいだ不可解に思ってきたことはいろいろあるのですが、その中の二つの箇所について、解説をお願いいたします。

(1)
「今あなたが目にしている見慣れた物体の周りが光で縁取られているように見えてきたときに、あなたはそれを理解し始めるだろう。それが真のヴィジョンの始まりである。こうして進んでいくにつれて、あなたは多くの「光の体験」をするかもしれない。 」(W-pI.15.2:2 – 3:1). 

私は何年もこのコースを学んできましたし、同じように学んできた人々を大勢知っていますが、私の知る限りでは、誰もそのようなことは体験していません。

(2)
「いつの日か、今のあなたがまとっている姿でこの世界に戻ることがなくなる時がくる。そのとき、あなたはその姿を必要としないからである。」(W-pI.157.7:3)

この一節は、私たちが肉体を去る時のことを意味しているのだろうと推察していますが、そうすると、そのあと私たちは、どんな形で、戻ってくるというのでしょうか?

 

【回答】

(1)
この一節は大勢の受講生達を悩ませてきました。物体の周りに、たとえばオーラのような光を見ることが、霊性における進歩を示すしるしであると示唆しているように思えるからです。もし、文字通りこれがそういう意味だったとしたら、この部分は『奇跡講座』が教えていることのすべてに反するということになります。ご承知のように、このコースは、すべての知覚は非実在であると強調しています。「テキスト」の中では、ヴィジョンがいかに神聖であるとしても、それらは、知覚に基づいているがゆえに、長くは続かない(T-3.III.4:6)と述べています。

「光」というのは象徴であり、知覚できる対象のことを言っているのではありません。あなたの外側に光を知覚するというのは、あなたの心の中の闇の一部を手放し、もっと多くの光を中に入らせるということを、象徴的に意味しています。このコースが私たちの中の光について語るとき、それは電球や、オーラや、私たちが実際に知覚する何らかのもののことを言っているのではありません。霊性の道においては、伝統的に、「光」は、神や生命{いのち}や真理といったものを意味する一つの象徴として使用されてきました。ですから、このコースもそれと同じ比喩的表現を用いているのです。「闇」は、罪悪感という闇、神から分離している状態という闇を意味しています。「光」は、そうした闇のすべてが取り消されること、そしてそれとともに神の臨在と神の愛を感じることを意味しています。

この一節は、最初はこのコース自体とは関係がなかったのです。ヘレン・シャックマンとビル・セットフォードには、共に医療センターで働く一人の親しい友人がいました。この人が、二人が最初からこのコースについて知らせていた唯一人の人物です。この人は、時々、真夜中に目を覚まし、自分の周りに光を感じたり見たりするようになっていました。そして、こうした体験についてひどく恐ろしく感じていました。ですから、これは、彼に、そうした「光の体験」をしていることについて心配しなくていいと知らせるための、イエスのやり方だったのです。(『天国から離れて』368ページ参照) これが、この一節がここに出てくる理由です。私自身(ケネス)は、この点について、何らかの注釈か説明を入れるべきだったのかもしれないと感じてきました。

いずれにせよ、この一節を、「もしあなたが光を見なければ、あなたは霊性の道における落伍者だ」と言っているように捉えるべきではありません。それよりも、「もし自分がもっと赦すことができるなら、自分の心はもっと多くの“光”で満たされるし、その光は延長されることになる」と言っていると、理解することです。そうすればあなたは、この世界を、もはや罪悪感という重荷を背負わされていないという意味で、「光で明るくなった」場所と知覚するようになります。ある人々は実際に物理的な光を知覚します。しかし、そうした光は、彼ら自身の心の内側における癒しのプロセスに属する象徴として、しかも、非常に数多くの象徴のうちの一つの象徴にすぎないものとして、理解されるべきものです。

(2)
同様に、レッスン157中の一節も、もともとはヘレン・シャックマン自身に与えられたものでした。これに関して、私(ケネス)は『天国から離れて』の中に、以下のように書きました。

「ヘレンから何度も聞いたことだが、イエスは彼女に、『今度あなたが来るときは、あなたは違っていることだろう』と告げていた。これは、ワークブックのレッスン157の『今私はキリストの臨在の中へと入っていく』という、もともとはヘレン自身に宛てた言葉を思わせる。 ・・・・・・・ちなみに、これはヘレンの気に入っていたレッスンのひとつだった。輪廻転生という話題はたいてい彼女を不安にさせたとはいえ、これらの文章についてヘレンは次のように理解していた。今度彼女が『来る』とき – つまり彼女の次の人生において – は、彼女も、初期の霊視映像に現れた女性祭司のように、自我から自由になっているだろう。」(『天国から離れて』567−568ページ)

ですから、この一節は、赦しの目的が成就されたときには、私たちはもう<教室>としての肉体を必要としなくなる、ということを意味していると理解できます。実相世界に入っていくとき、私たちは神の一人子としての自分の本性を思い出します。その次に肉体の中に現われるときには、私たちの心の中の想念が違ったものとなっているでしょうから、当然、私たちも違ったものになるはずです。肉体は、私たちの<教室>ではなくなっており、聖霊がそれを通して癒しと赦しのメッセージを伝えることができるような手段としてのみ存在することでしょう。イエスは、「教師たちの教師」について次のように語っています。「・・・・彼らはもはや目には見えないが、今でもその姿を思い浮かべて頼りにすることができるからである。そして姿を現わすことが助けになる時や場所で、姿を現してくれる。」(M-26.2:2-3)