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「・・この思考の逆転をもたらすために聖霊が用いる大いなる学びの補助手段が、赦しである。」
『奇跡講座』まえがき から

                                   

  

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【質問】No.50 (org.#613)

大望を抱いたり、状況改善の方法を考案したりすることは、間違ったことなのでしょうか?

 

私はまだ『奇跡講座』を学び始めて日が浅く、このコースを読むこと/学ぶことを始めたばかりですが、質問があります。自分の職業や、家庭その他の状況において、大望を抱いたり、状況改善の方法を考案したり、物事のより良いやり方を工夫したりするのは、間違ったことなのでしょうか?

 

【回答】

このコースは、私たちがこの世界の中で行うことのすべては、正しいわけでも間違っているわけでもないと教えています。

私たちが行うことの中で唯一の「間違ったこと」というのは、心の中で、「分離の想念が実在すると信じる」という選択をすることです。次に私たちは、この世界と肉体は実在すると信じることによって、この想念を裏付けます。私たちが間違っているのは、こうした信念に関してです。

『コース』は、分離は一度も起こっていないし(M-2.2:6-7)、この世界は存在していない(W.pI.132.6:2)と教えているとはいっても、私たちがこの幻想の世界の中で経験することが実在すると信じていることも、理解しています。それゆえに、私たちに、自分の経験を否定するのではなく(T-21.V.3:8-11)、聖霊にそれを一つの<教室>として使用させなさいと教えています。自分とは何かについて私たちが間違っていた、ということを学ぶための<教室>としてもらうのです。

これを行うには、私たちは、この世界の中で行動(=形態)を変えるのではなく、自分の生活におけるすべてのものごとの目的(=内容)を変えるのです。つまり、分離と裁きを目指す自我のゴールを手放し、私たちの心を分離の想念から癒すことを目指す聖霊のゴールを受け入れるのです。

もし私たちが、大望を抱いたり、改善のためのアイデアを思いついたりすることをやめようとし、自分の人生を満たしている諸々のものを持たずにすませようと努力するとしたら、私たちは、聖霊が私たちに教えるために必要としている<教室>そのものを自分に与えないようにしていることになります。この世界の中で「機能する」肉体をもった人間として存在するというこれらの体験こそが、まさに赦しのプロセスを学ぶための手段なのです。

目指すべきは、それらの体験を、聖霊により変容させてもらうことです。イエスは「テキスト」の中で次のように述べています。「自我は自分が知覚する通りに世界を作り出したが、自我が作り出したものの再解釈者である聖霊は、あなたを故郷へ連れ帰るための教育の仕組みとしてこの世界を見ている。」(T-5.III.11:1)

私たちの最初の課題は、自分の一見「普通の」考えや日常的な活動の中に、そしてとりわけ人間関係の中にひそむ、自我の目的を認識することです。それらはみな、私たちの肉体やこの世界を実在のものにし、分離という幻想の中に私たちをつなぎ止めておくことを狙いとしています。

このプロセスにおいて非常に重要なことは、私たちの経験のどの部分も否定しないことであり、その部分を形態のレベルで変えようとしないことです。それをすれば、その形態には真の結果を生み出す力があると自分に確信させ、それを実在していると見なしてしまうだけです。

いかなる形態も、結果を生み出す原因にはなれません。形態はそれ自体が、一つの結果であり、原因ではないからです。それは、既に述べたように、「分離が実在すると信じることを、心の中で選択したこと」の結果です。その選択をした想念を認識することを、私たちはこのコースから学んでいるのです。そうすれば、それは訂正されることが可能になります。それが、このコースが言うただ一つの「問題」です。(W-pI.79, 80)

自分の行動について、あるいは自分が抱く考えや価値観について、何かが間違っていると察知することは、非常に助けになります。それらは、「何か間違っていることがある」ということについて、心の一部が気づいている、ということを知るための手ががりとなるからです。ただし、その間違った何かというのは、私たちの心の中にあるのであり、世界の中にあるのではありません。

もっと快適な経済状態や、もっと高い地位を手に入れることや、もっと上手いやり方をすることなどが真の幸福をもたらしてくれると、誤って信じてしまう時、私たちがすべきことは、自分がそのように信じているのは間違っていると思い出すことです。そして、聖霊に、真に自分を幸福にしてくれるのは何であるかを教えてほしいと求めるのです。

その後であれば、こうした大望を追求するのはかまいませんが、そのとき私たちは、それらによって平安や幸福がもたらされたり、奪われたりするとは思わなくてすみます。さらに、最も重要なことは、そうした大望を抱く自分を罪深いと裁いたりしなくてすみます。というのも、「聖霊は、あなたが差し出すすべてを、あなたの救済のために使うことができる」(T-25.VIII.1:1)からです。