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【質問】No.52 (org.#179)

自分の意志をわが子に強いるのは、攻撃ということになるのでしょうか?

 

私は最近『奇跡講座』を学び始めたばかりです。このコースの教えを、子育てやしつけに組み入れていきたいと思っています。私は子供たちには、まず第一に、彼ら自身が選択したことから自然に生じる結果を通して教えるように努力しています。それが、が私たちに教えるやり方だと思えるからです。けれども時々、彼ら自身の最善に利益のためには、彼らの意志を抑えて私の意志を行使する必要があるように思えます。たとえば、翌日学校のある日は、就寝時間を守るべきだとか、肺炎になったら注射を打つ必要があり、そこに選択の余地はない、といったことなどです。そうした場合、私は自分の意志を他者に強要していますし、それは一種の攻撃のようにも見えます。

このコースの教えに沿った子育てのために、何かご意見をいただけますか?

 

【回答】

役立つことはと言えば、まず、行動面にはあまり意識を向けず、常に自分のしていることの目的は何かということに焦点を合わせることです。つまり、<形態>よりも<内容>を重視するということです。このコースの原理を適用するときには、<内容>と<形態>を区別することが必要不可欠です。

次に、霊性の道を学ぶ者として、私たちは決して、常識を見失ってはなりません。ですから、親は親であり、子供は子供であって、両者は対等ではないということです。そして、親たちは子供たち自身よりも、子供たちにとって何が最善かを確かによく知ってます。

子供たちの意志を抑えてあなたの意志を行使することが攻撃となるとすれば、それは、あなたが攻撃を意図するときだけです。もしあなたが、怒っていたり、懲罰的だったり、専制的だったり、屈辱的だったりするときには、その<内容>は攻撃です。しかし、しつけられていない子供たちに対し単に厳格に接するというときは、攻撃ではありません。あらゆることにおいて、子供たちにやりたい放題にやらせるということは — 多くの研究がすでに確認している通り — 決して愛情深いことでも助けになることでもありません。もし、彼らに限界という感覚がまったくなかったなら、彼らはこの世界に立ち向うことのできる健全な個人には育たないでしょう。

子供をしつけたり訓練したりするために、自分の自我の必要を脇に置くということは、全面的に可能なことです。子供の攻撃性に対し、単に、そうした状況で必要とされるやり方で対応しているとき、行動面だけを見れば、親のしていることが強引に見えるかもしれません。ですから、行動だけを見て、その<内容>が何かを決めることはできません。けれども、当然のことながら、もし親が、子供が血だらけになるまで打擲しているとしたら、それが攻撃だという可能性は非常に大きいと言えます。

ですから、要は、自分自身の中で、<形態>と<内容>を弁別する練習をするということです。そうして、あなたの心の中で、自我からくる<内容>を、聖霊の愛のもとに運び、それを聖霊の<内容>へと変化させられるように助けを求めることです。あなたの心の<内容>が、愛に満ちたものであれば、あなたがお子さんたちをしつけている時に彼らが受け取るメッセージは、「自分たちは愛され、気遣われている、だから、親が常に自分たちの面倒をみてくれると信頼していてよい」というものになります。私たちは、自らの関わりの中でこのコースの原理を行動で示すことにより、子供たちにそうした原理を教えていくのです。