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「・・この思考の逆転をもたらすために聖霊が用いる大いなる学びの補助手段が、赦しである。」
『奇跡講座』まえがき から

                                   

  

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【質問】No.55 (org.#32)

意識は幻想にすぎないのでしょうか?

 

私が読んだ本によれば、フロイトは「精神分析の要点は、無意識を意識化することにある」と言っていたとのことです。『奇跡講座』が或る意味ではフロイト心理学の概念に基づいていることは承知していますが、このコースは「すべての意識は本質的に幻想にすぎない」と述べているのではありませんか? だとすると、このことは精神分析の主要な目的と矛盾しないのでしょうか? それとも私が一種のレベルの混同をきたしているのでしょうか?

 

【回答】

確かに 『奇跡講座』 は意識を幻想と見なしており、テキストのはじめの方で次のように説明しています。「意識は知覚のレベルのものであり、分離の後に心の中に生じた最初の分裂であった。それにより、心は創造する主体ではなく、知覚する主体となった。意識は、自我の領域と見なすのが正しい。」(T-3.IV.2:1,2) けれども、分離への信念を支え、維持するために自我が作り出したあらゆるものに対する場合と同様に、聖霊は意識にも別の目的を与えることができます。

ですから、おっしゃる通り、形而上学的に言えば、意識は幻想の一部であり、実在してはいません。けれども、私たちはその実在性を信じており、自分に内在するものとしてそれを経験していますから、このコースは、最終的には意識を超越できるようになるという目的のために意識それ自体を用いる方法を、私たちに提供してくれているのです。実相世界を達成するための訓練のプロセスは、実際のところ、私たちの自我が恐れによって無意識化させた事柄を意識化するプロセスなのです。それにより、自我による偽りの知覚が癒されて、聖霊による真の知覚へと入れ替わり、すべての意志や知覚を超越した智識 [ 『奇跡講座』 では天国を意味する用語] のもとへと私たちが帰還できるように準備をします。

私たちは分裂した心 ― 意識が存在しているところ ― を、無意識化して、代わりに意識は肉体の (もっと具体的に言えば、頭脳の) 付帯現象だと信じています。私たちはまた、意識を防衛するためにでっちあげた、心の中にある罪悪感も、すべて無意識化しました。つまり、それらの起源について私たちが決して疑おうとしない場所、外側の形態の世界の中へと、それらを投影したのです。

ですから、自我による防衛のすべてが意識化されなければなりません。つまり、このコースが能弁に語っている通り、私たちは「闇を光へと運ぼうとする意欲を持つ」 (T-18.III. 6:2) 必要があるのです。それにより、それらの非実在性が認識できるようになります。ですから私たちは、意識を使って、それに取り組むのです。そして最後には、自分の間違った知覚のすべてが意識化されて癒され、意識自体がもはや必要とされなくなります。そして、そうなったとき、私たちには、意識や知覚の領域を後にして、「・・・見られる [知覚される] ためにではなく、知られるために、ベールの向こうの存在の中へと消えていく」(T-19.IV.D.19:1)」 ための準備が整います。