Site menu:

JACIM 別館へ

jcm

JACIM Booksへ

jb

好評発売中:

DVD「思考の逆転」

「・・この思考の逆転をもたらすために聖霊が用いる大いなる学びの補助手段が、赦しである。」
『奇跡講座』まえがき から

                                   

  

  g                                          

サイト内検索

関連サイト

【質問】No.56 (org.#193)

「主の祈り」は、『奇跡講座』の観点からは、真の祈りなのでしょうか?

 

聖書においてイエスから直接に与えられたものとされている「主の祈り」は、この世界や罪に実在性を与え、が私たちの生活に関わってくれるよう要請しているように思えます。このコースの観点からは、このことをどのように説明できるでしょうか。

また、この<夢>の世界の中において有効な祈りとは、たとえばどんなものでしょうか?

 

【回答】

福音書は、歴史的存在としてのイエスの死後約50年経ってから書き留められたものですから、そこに述べられていることのどれ一つをとっても、イエスが実際に述べたことを正確に伝えているかどうか不確かです。実際のところ、聖書学者たちによれば、イエスはおそらく福音書の中に記録されている文言の多くを実際には言わなかった、というのが定説です。ですから、「主の祈り」は、直接イエスから発せられたものとは、必ずしも言えないのです。それは、新約と旧約のどちらの聖書の教えとも一致していますが、それらは、あなたのおっしゃる通り、罪やこの世界を非常に実在性のあるものにしています。このことに関して、『奇跡講座』の観点から唯一可能な説明は、聖書の教えとこのコースの教えは違っている、というものです。両者は似ておらず、対照的なものとして比べてみることだけが可能です。このコースは、聖書の中に見られる用語を、異なった解釈に基づいて使用しているからです。

<夢>の中における祈りとは、究極的には、「自分には選択する力を備えた心がある」ということを自分自身に思い出させる言葉です。何らかの葛藤や、苦悩をもたらす状況に直面した時、私たちの祈りは次のように簡潔なものとなります。

「兄弟よ、選び直しなさい。」(T-31.VIII.3:2)

この祈りが暗に示唆しているのは、私たちはすでに一つの選択を下してしまっている、ということです。私たちの苦悩の真の原因はこの選択であってその状況ではないということ、そして、だから私たちは「選び直す」ことができる、ということなのです。これは非常に単純な祈りですが、上記のような示唆も受け入れた上でこの言葉を真摯に口にしようとすれば、強い抵抗感に出くわすこともあります。自分が下した選択についての責任や、自分が感じている苦難についての責任も、自ら引き受けるよう求められるからです。

以上が、『奇跡講座』が教えている祈りに伴うプロセスですが、このコースは、私たちの学びの様々なレベルにまで降りてきてくれます。私たちは、[抽象的な]自分の心の力を、それを象徴する何らかの[具体的な]形を通して体験する必要があるので、このコースの中には、父なる神に対する祈りや、聖霊に対する祈りなどが見られるのです。これらの「祈りの言葉」の多くは、非常に美しいものなので、実際のところ、に対してというよりも、私たちのこころ(ハート)に語りかけてきます。いずれにしても、このコースの教えによれば、には祈りは聞こえません (T-16.VII.12)。これらの祈りは、私たちが自らのこころの真の願望に触れるのを助け、別の選択をするよう私たちを励ますために与えられているのです。これが、マニュアルにおいて、「具体的なものについての祈り」(M-21.2:3)と対比されている「こころの祈り」です。この「こころの祈り」とは、私たちが真に願っているもののことです。

このコースはまた、私たちの祈りは聞き届けられ、私たちは自分が求めるものを受け取ると教えています。そして私たちの「祈り」というのは、常に、二つのうちどちらか一つを求めるものです。すなわち、自我による解釈か、聖霊による解釈か、ということです。そして、私たちはその二つのうち自分が真に願うほうの一つを受け取ることになります。これは当然、この選択が為される場である心のレベルで起こることです。<夢>の中では、私たちの祈りの結果は、平安という形(聖霊を選択したことの反映)か、何らかの形の葛藤(自我を選択したことの反映)かのどちらかとして経験されることになります。具体的なものごとは問題ではありません。最も重要なのは、常に、私たちのこころが向いている方向であり、私たちの意欲です。

私たちが「祈る」時というのは、自分が誰の声を聞くことを選んだのかを認識しようとする意欲をもって、自分の内側を見る時です。そしてこのようにして祈るということが表しているのは、私たちはすでに自我に耳を傾けることを選んでしまっている、ということであり、そしてまた、そのとき私たちは、「これが、本当に自分が聞きたいと思っていることなのか」と自問する機会を得ており、そうして今、私たちは選び直すことができる、ということです。自分が実際に聖霊の声に耳を傾けているかどうかについては、私たちは自分がいずれ経験する平安により、それを知ることになるでしょう。

 [あなたの心の中の]神の声を聞いている部分は穏やかで、常に安らいでおり、完全に確かである。存在しているのは本当はこの部分のみである。その他の部分は荒唐無稽な幻想であり、狂って錯乱した、何の実在性もないものである。今日は、それに耳を貸さないように努力してみなさい。心の中の静けさと平安が永遠に君臨している部分と一体感を持とうとしてみなさい。あなたに愛を込めて呼びかける神の声を聞こうとしてみなさい。それは、創造主わが子を忘れていないことを思い出させようとしている。 (W.p.I.49.2)

私たちの「祈り」とは、このようにして耳を傾けることにほかなりません。