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「・・この思考の逆転をもたらすために聖霊が用いる大いなる学びの補助手段が、赦しである。」
『奇跡講座』まえがき から

                                   

  

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【質問】No.62 (org.#1347)

日本人のように神に対する恐れが希薄な人々の場合

 

たとえば日本のような国では、組織化された宗教に対する関心は非常に薄く、もちろん、アブラハム系の三つの宗教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教)の伝統の中に見られるような、神に対する恐れといったものもほとんど存在していません。

そうした国の不可知論者たちが、そもそも自分の源から分離しようとしたりするでしょうか。

このコースによれば、私たちがこの世界やこの肉体を作り出すことにより、怒りの神から隠れているとのことですが、どんな神に対しても関心も恐れもないといった人々については、どうなのでしょうか?

 

【回答】

私たちの心にとっては、「この世界は実在している」という前提に基づかない問いを発することは難しいものです。その前提にさらに含まれていることは、「この世界には様々に異なった信念や哲学をもつ異なった人々が住んでいて、それぞれがきわめて特定の時間に、きわめて個別の空間に存在している」といったことです。そして、もちろん、そうしたものが、私たちの経験している世界です。つまり、私たちは自分を個人的な自己と見なしていて、その自己は、この世界にいる他の分離した自己たちとあまり関わらず、影響し合うこともなく、自分だけの個別の存在を持つかに見えています。

しかし『奇跡講座』の観点からすると、こうした前提は全く真理からかけ離れています。この世界は、実相の一体性の外側に存在できると信じている一つの分裂した心による、単一の投影にすぎないと述べられています(T-18.I.4-6)。

この分裂した心の様々な側面が、形態の世界の中に投影されているかに見えているわけですが、そのとき、それらは数多くの形を呈することになります。しかし、一つだけ、それらのすべてに共有されている事柄があります。それはすなわち、それらのすべてが、「分離は実在している」という信念を象徴しているという点です。それはまた、「私たちはみなそれぞれに、なぜ自分がこのようなところに来てしまったのかはわからないながらも、自分がここにいるということだけは確信しつつ、この世界に孤独に存在している」という信念でもあります。それゆえに、時折、この世界は、自然という非人為的な力や、更に強力な人為的な力 – つまり、自分の外側の他者 – に起因する潜在的な危険に満ちた恐ろしい場所として、経験されることになります。

ですから、私たちが意識的なレベルでどのような宗教的信条や霊性についての信念を抱いているか、あるいは抱いていないか、といったことには関わりなく、私たち全員が肉体を自分自身と同一視して、自分が分離の世界の中にいると感じているように見えるという事実は、私たち全員が同じ自我の思考体系を共有しているということを意味します。

したがって、私たちはみな、分離を信じていることについての自分の罪悪感から逃れるために、無意識のうちにこの世界を使っているのです。それは、自分の外側の何らかの勢力に罪悪感を投影するという形で行われています。ですから、私たちが意識的に何らかの神を信じているか否かは問題ではなく、私たちはみな、自我と自我の防衛とを信じているのです。そして、私たちは、分離した心の中にある罪・罪悪感・恐れの全てについて自分に責任があるとは見えないようにするために、世界や肉体が提供する見掛け上の防衛を受け入れてきたのです。そして、そうした罪・罪悪感・恐れは、自分がこの世界の中にいると思っている全ての人々が共有しているものです。

一組の象徴表現を使った思考体系としての『奇跡講座』は、特定の文化的背景に密着したものですから、神および世界の本質や存在について異なった文化的信念を抱いている人々には、共感されにくいかもしれません。『奇跡講座』に独特の神話は、単にユダヤ教やキリスト教の中に数多く見られる神話に由来したものにすぎません。

しかし、『奇跡講座』の内容は普遍的なものです。なぜならこのコースは - ユダヤ教・キリスト教的な用語や形態においてではありますが - 「自分はこの世界の中に住む肉体である」と信じているあらゆる心が究極に何を信じているかについて、述べているからです。したがって、究極には、分離した心の、断片化されたかに見える側面たちのそれぞれが、「自分は愛から分離してはおらず、自分が持っている分離についての罪悪感に実在性はない」ということを必ず悟るようになります。ただし、この理解へと導く象徴表現は、一なる子の全体では、多種多様なものとなります。(M-29.2:6)。