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【質問】No.63 (org.#914)

「経時的すなわち水平的な存在領域」(T-1.II.6:2)

 

『奇跡講座』は 「経時的で水平的な存在領域」 ということを言っています。
これについて説明していただけますか。

 

【回答】

あなたが言及しておられる一節は、次のように述べています。

奇跡は時間の必要性を最小限にする。経時的すなわち水平的な存在領域においては、一なる子に属する者たちの対等性の認識には、ほとんど果てしない時間がかかるように見える。けれども、奇跡には水平の知覚から垂直の知覚への突然の移行が伴う。(T-1.II.6:1-3))

この一節は、テキスト第1章で、次のように語られたすぐ後にでてきます。

「われによらでは誰にてものみもとにいたる者なし」とは、私が何らかの形であなたから分離している、もしくは異なる、という意味ではない。時間の中ではそういう意味になるが、時間は実際には存在しない。この言葉は横軸よりも縦軸の観点で捉えたほうが意味がある。(T-1.II.4:1-2)

イエスは、「経時的」と「水平的」という言葉を、この形態の世界における私たちの直線的な時間の経験を指して使用しています。彼がこれらの言葉を選んだ理由は、これらが、一定の間隔に及んでいて、一つの地点から別の地点へと進むものを示唆しているからです。

私たちは、自分がこの形態の世界の中に生まれたと信じており、この世界は自分が来る前から存在していたし、自分が死んだ後も続いていくと思っています。その世界の中では、次から次へといろいろな出来事が起こり、過去が現在になり、その現在がまた私たちの未来を決定するかに見えます。さらに、私たちは一個の肉体であり、それゆえ、互いの間に距離を保ちながら相互に分離して生きているかのように見えます。

ですから、「経時的すなわち水平的な存在領域」とは、私たちの日常的な現実と見えているもののことであり、差異と分離を特徴とする、直線的で、連続的で、物理的な経験のことです。

しかし『奇跡講座』は、「時間とは、手品のように巧妙なからくりであり、広大無辺なる幻想である」(W.pI. 158.4:1)とも、「空間も時間と同じように無意味である」(T-1.VI.3:5)とも述べています。そして、私たちが内なる教師 – 聖霊 – に耳を傾けることができるということを、思い出せるように助けてくれます。内なる教師とは、私たちが自分の居場所と考えているこの空間と時間からなる夢の世界の外側から訪れる教師です。

自我に背を向け、自分の導き手として聖霊を頼みとする時、私たちの心は、天国の一体性と超時性を反映するものとなります。その「奇跡」の瞬間が、「水平の知覚から垂直の知覚への突然の移行」というフレーズが意味しているものです。

「垂直の」という言葉はまっすぐに昇っていくことを意味しています。ですから、「垂直の知覚」は、私たちが自分たちの居場所と思っている世界を超えて (あるいは、テキスト第23章で述べられているように「戦場を超えたところに」) 昇っていくことを象徴しています。これは、非直線的な心への回帰を伴います。

時間の中以外ではイエスは私たちと何の違いもないという考えは、自分の意識とイエスの意識の間の大きな隔たりが克服不可能なものに見える私たちの観点からすると、ほどんど励ましにはなりません。私たちには、自分が今いるところから、彼がいるところまで進むには、何百万年もの学びが必要であるかに見えます。しかし実際には、私たちが必要としているのは、自我から聖霊への内的な移行だけなのです。

自我は、私たちに後ろに戻るようにとか、前に進むようにとか告げますが、どちらにしても、私たちをこの世界の中にしっかりと根付かせます。聖霊は、この幻想の世界を超えたところに存在する光へと私たちが至れるように優しく助けてくれます。

最後にもう一点。イエスが『奇跡講座』の中で、私たちのいるところや、天国の真のわが家へと戻るプロセスを描写するために用いるどんな言葉も、象徴にすぎません。真理においては、世界が存在しないのと同じく、経時的で水平的な存在領域といったものは存在しません。しかし、事実上、私たちがこの夢の世界の中に置いたすべての象徴が、私たちを眠ったままにしておくために働いているので、イエスは、私たちが目覚めるための助けとなるよう、私たちにもわかりやすい象徴を使用しているのです。