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【質問】No.73 (org.#79)

憎み合っている家族との接触を避けながらでも、彼らを赦すことはできるのでしょうか?

私には5人の兄弟姉妹がいますが、彼らとの間の関係は、大方において<特別な憎悪>の関係です。私たちの間の対立は、母の介護や、母の資産の分配をめぐって、激しくなる一方です。私としては、家族やそうした対立からは、ただ距離をおくのが最も簡単と感じています。これは私に平安を与えてはくれませんが、少なくとも不安を最小限に抑えてくれます。これが私の<教室>だということは承知しているのですが、それでも私は、もし母が亡くなったとしても母の葬儀には出たくないとさえ思うところまで、自分の家族を避けたい気持になっています。

そこで、お聞きしたいのですが、兄弟姉妹を避けることを選びながら、彼らを赦すことに取り組むということはできるのでしょうか?

【回答】
あなたが、「自分の兄弟姉妹を避けることは、平安をもたらすことも不安を解消することもなく、ただ不安を最小限に抑えるだけだ」と認識しておられるのは、賢明なことです。自我は、否認や回避によって、罪悪感や葛藤や恐れを減少させるかに見える方法を差し出すことにかけては、非常に巧みです。それにより、私たちが問題そのものには決して対処しなくなり、その結果その葛藤が存続し、決して解決されないようにするのです。

恐れを消し去ることはせずに最小限にとどめるというのが、自我が絶えず努力していることであり、この点において自我の技はきわめて巧妙である。
(T-11.V.9:2)

ですから、すでに気づき始めておられるかもしれませんが、あなたが彼らと実際に連絡を取り合っていようといまいと、あるいは物理的に彼らと同席していようといまいと、葛藤自体を真に回避することはできないのです。それはなぜかと言えば、すべての関係はあなたの心の中だけに存在するからです。また、信じがたいことかもしれませんが、真の葛藤はあなたの兄弟姉妹とは何の関係もないからです。しかし、あなたにとって彼らが何を象徴しているかは、大いに関係があります。なぜならば、真の葛藤もまた、あなた自身の心の中だけに存在するからです。ですから、あなたの関わる関係におけるどのような変化も、まずはあなたの心の中で始まらなくてはなりません。

このプロセスについて、イエスは次のように述べています。

誰もが、自我、すなわち自分自身のための自己というものを作り出すが、それは不安定なものであるため、ありとあらゆる形に変貌し得る。人はまた、自分が知覚する誰についても自我を作り出すが、そうした自我も同様に可変である。そのような自我同士の関わり合いは、両者を変化させるプロセスである。それらは不変なる存在に作り出されたわけでも、不変なる存在と共に作られたわけでもないからである。ここでよく理解しておくべきことは、その関わり合いが心の中で起こるときでも、物理的に近接して起こるときでも、同様に容易にこの変化が生じ得るし、実際に生じているという点である。他者の自我について考えることは、生身の人物と関わり合う場合と同じく、相対的な知覚を変化させることができる。自我というものが単なる想念であって事実ではないことを示すのに、これ以上の良い例はない
(T-4.II.2. 下線は回答者による)

ですから、確かに、あなたは兄弟姉妹の方々と連絡を取り合うことや物理的に同席することがなくても、彼らを対象とする赦しのレッスンに取り組むことができます。ただしその場合、世界に投影されている葛藤、つまり、あなたにとっては「兄弟姉妹」として表れている葛藤を、自分の心の内側に目を向けて直視することまで回避すると決めていないことが前提です。彼らは、あなたが見たくないと思ってきた自分自身の心の奥底にある罪悪感に触れることのできる機会を提供しています。それは、あなたが、自分の内側にあるにもかかわらず、自分の外側に、つまりこの場合はあなたの兄弟姉妹の中に見たいと思ってきた罪悪感です。ですから、一旦あなたが真の問題がどこにあるかを認識したなら、赦しのプロセスにおいて、彼らは前景から後方へと移動します。

そうすると、赦しのプロセスの次の段階はどういったものになるのでしょうか。イエスは私たちに次のように告げています。

真の赦しへの扉を発見し、それがあなたを歓迎して大きく開かれるのを知覚するために、非常に簡単な方法がある。自分が何らかの形の罪について誰かを責めたいという誘惑にかられるのを感じるとき、彼がおこなったとあなたが思うことについて、心の中で考え続けてはならない。そうすることは、自己欺瞞である。そのかわりに、「私はこれと同じことをする自分を、責めたいだろうか」と自問しなさい。(W.pII.134.9)

自己譴責を明るみに出すために必要なことは、自分が彼らの何について非難しているのかを、あなた自身が識別することだけです。ただし、彼らがしていることの具体的な<形>ではなく、<内容>のレベルにおいて識別する、ということです。おそらく、あなたが非難していることは、「彼らは、自分だけの利益を他の皆の利益よりも優先させ、状況を上手くコントロールしたり操作したりして、自分自身の必要が確実に満たされるようにしたがっている。そして他の誰についても真の関心は抱いていない」といったことに関連する何かである可能性は高いでしょう。もしそうだとすれば、あなたは、自分に正直になって、母親に関するこの状況において自分はそれをしてはいないけれども、時には自分もそれと似たようなことをすることもあるということを、認める必要があります。

そうすると、あなたがイエスまたは聖霊のもとに運んで癒してもらうべきものは、その自己譴責です。イエスや聖霊によるあなたについての知覚は、あなた自身によるそれとは違ったものになるからです。彼らの知覚は、いつでも、攻撃と罪のあるところに恐れと「愛を求める呼びかけ」とを見るという、裁かず受け入れる知覚です。彼らによるあなたについての知覚を共有することができるとき、あなたは、自分の心の中にあるその罪悪感を手放し、同時に、あなたが兄弟姉妹をつなぎ止めてきた罪悪の鎖から、彼らを解き放つことになるでしょう。

さて、この解放は、一度の試みですべてに及ぶような全的で完全なものであることは、まずありません。私たちの恐れは、全的な解放を自分に受け入れるには余りにも大きいからです。罪悪感を戻ってこさせると、私たちは再びそれを投影しなければならなくなります。そして、これまで長い間、不満を抱く相手としてきた自分の兄弟姉妹は、たやすくその標的となります。ですから、あなたが彼らを赦していくプロセスは、おそらく時間のかかるものとなることでしょう。それでも今では、あなたには、少なくとも、どこに真の問題があるかがわかっています。