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「・・この思考の逆転をもたらすために聖霊が用いる大いなる学びの補助手段が、赦しである。」
『奇跡講座』まえがき から

                                   

  

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【質問】No.80 (org.#844)

「助けになる」ということの意味について

 
心霊的能力に関する別の質問への答えの中で、「もしある人が、誰かの助けになろうとしておこなったり語ったりしている事柄について、そのように行動する具体的な目的を自分で知っていると考えるなら、その人はおそらく、間違った心から考えている」というようなことが述べられていました。

そのことは、心霊的能力とは関係のない場合でも、このコースの学びの道を歩む私たち全員にとっての大まかな指針となり得るものなのでしょうか。つまり、私たちは、自分が誰かのために語ったりおこなったりすることがどうして助けになるのかを、本当に知らない、ということなのでしょうか。

【回答】

そうです。そのように考えて間違いないでしょう。そして、その論拠となるのは、自分のしていることが助けになるということの理由として私たちが考えつくものは、たいていの場合、自分自身や他者を「肉体の中にいる存在で、特定の必要をもっている者」と見なす観点からきているからです(T-1.VI.1,2))。しかし、『奇跡講座』の観点から言えば、何かをする理由となり得るものは、二つだけです。すなわち、自我の思考体系に対する自分の執着を強化したいのか、あるいは、赦しを通してその執着を手放したいのか、のどちらかです。そして、私たちが肉体に焦点を合わせていて、唯一の問題と唯一の真の選択肢が存在する場である心を除外し続けているとき、私たちは、自我に対し忠誠を誓い続けていますし、分離やそのすべての結果の実在性を信じている自我の信念に忠実であろうとし続けているのです。とはいえ、私たちが意識してこのように意図していると言っているわけはありません。もともと自我は、自我の声に耳を傾けているときに私たちが本当は何をしているのかについて、私たちに自覚させることは決して望んでいないのです。

私たちの人生を夢にたとえる『奇跡講座』の比喩を用いるなら、私たちが何かをするときの理由は、常に夢の登場人物の観点から生じており、夢を見ている主体の観点から生じてはいません。けれども、この「夢を見ている主体」こそが、分裂した心の中での私たちの正体なのです。ですから、何かをすることについての私たちの理由のように見えるものは、夢や夢の中の人物を実在のものと見なし続け、私たちを眠らせたままにし、夢を見続けさせているのです。そして、もちろんこれが自我の目的とすることです。しかし、私たちが正しい心に居るときには、私たちのすべての選択は、夢を見ている主体と次第に同一化できるようになる方向へと私たちを導きます。それにより、私たちはいつでも、「夢を見続けるか」、「夢から目覚めるか」の間で選択をしているだけだという理解が、深まっていきます。(T-4.I.4:4; T-10.I.2,3; T-18.II)

だからこそ、「ワークブック」の初期のレッスン(W-pI.5)が、私たちは自分で考えているような理由で動揺しているのではない、と告げているのです。私たちは、自分が動揺している理由は、この世界の中の夢の登場人物に対して起こっているかに見えている事柄のせいだと考えています。けれどもこのレッスンが私たちに理解させようとしていることは、私たちが動揺している理由は私たち自身が「罪、罪悪感、恐れ」という自我の内容を表象する夢を見ることを選択しているからだ、ということです。さらに、そう選択するのは、心の中で自分が自我を選択していることの責任をとらなくてすむようにするためである、ということです。ですから、もし私たちはみな、自分が思っているような理由で動揺してはいないというのなら、そして、私たちの動揺は私たちの人生 ― 夢 ― の中で起こっている事柄とは何の関係もないというのであれば、自分自身や他の誰かにとって、具体的に何が真に助けになるのかを、どうして私たちが知ることなどできるでしょう。

私たちが自分自身や他者に対し真に助けになれるのは、自分自身にできる唯一の意味ある選択を思い出しているときのみです。その選択とはつまり、自分自身や他者に起こっているように見える事柄について知覚するときの導き手として、自我か聖霊か、どちらの教師に耳を傾けるかという選択です(T-26.V.1) 。そして、私たちがその選択のことを思い出しているということ自体が、他者にとっては、「自分にも同じ選択ができる」ということを思い起こさせるものとなります。それだけが、何かをする際の真の理由です。そのとき、私たちが行うことの形態は、利害が分かれているのではなく共有されていることに感謝する気持を反映するものとなることでしょう。けれども、決して、形態自体が助けになるのではありません。私たち全員を優しく分離の夢の外へと連れ出し、輝かしい自己に目覚める方向に向って導いてくれるのは、常に、その奥にある内容なのです。そしてその自己とは、私たち全員が共有するものであると同時に、私たちそのものでもある自己です(T-22.IV.7:8)。