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【質問】No.83 (org.#155)

なぜ、私は救済の即時性を体験できないのでしょうか?

私が『奇跡講座』を学び始めてから、もうすぐ1年になります。

今「テキスト」で読んだばかりの箇所なのですが、説明していただきたいところがあります。

「救済の即時性」についてなのですが、誰かがこの即時性を経験しないとしたら、その理由は、「分離したままでいたい、罪悪感と赦したくない気持ちにしがみついていたい」という小さな欲求が依然として残っているからだ・・という意味のことが述べられています。

私は10年のあいだ、生活に支障をきたすほどのパニックに陥っては苦しんできました。そして私は、自分でこの状況を作り出したということを完全に受け入れて、認めることができますし、「分離したままでいたい、罪悪感を抱いていたい、赦さずにいたい」という誤った想念に自分がしがみついてきたということも、受け入れ、認めることができます。

私が何よりも切望していることは、これらの誤った知覚を癒して手放すことです。なぜなら、この不安感がもたらす苦痛は、私にとってまったく堪えがたく、容認しがたいものだからです。

けれども自分の責任を認める気持や、自分の間違った知覚を訂正してもらおうとする私の意欲がこのように大きいにも関わらず、私は相変わらず苦しんでいます。

どこが間違っているのでしょうか? 

なぜ、私の深い認識や意欲も、約束されている「救済の即時性」という奇跡をもたらすのに充分ではないのでしょうか?

 

【回答】

あなたが言及しておられるセクションにおいて、イエスは、私たちが自分と兄弟との間に維持しようとしている空間を「小さなもの」として語っています。しかし、その空間が小さいからといって、その距離をそのままに保つことへの私たちの厖大な執着を軽視していいという意味にはなりません。

私たちが自分だと信じている存在としての自己認識全体が、分離の想念を私たちの心の中で実在させ続けようとしていることによって維持されています。また、その分離の想念が「自分の体と兄弟の体の間の空間」として外界に投影されていることによっても、維持されています。ですから、私たちは、もし今、自分のすべての不満や攻撃の想念を完全に手放したなら、自分の自己を失うことになるということに対し、途方もなく大きな恐れを抱いています。

イエスはこの恐れについて次のように述べています。

「救済は、確かにあなたがいまだに互いの間に見ている空間を一掃し、あなた方を瞬時にひとつになれるようにする。そしてあなたは、ここに損失があるだろうと恐れている。」(T-26.VIII.3:4-5)

ですから、あなたは、あなたの発作的パニック状態の中に反映されている恐れの深さに敬意を払うことを学ぶべきなのです。ゴールは、自分の恐れを直視するにあたってイエスにつながり、もっと深いところにある恐れの源と目的を理解するために彼の助けを求めることです。その源と目的とは、心の中の、分離した個人としての存在を維持したいと望む部分に、埋没させられているものです。ですから、これがほぼ確実に時間のかかるプロセスであることを認め、自分自身に対し辛抱強くなることも、大切なことなのです。感情に逆えば、感情を抑圧することになり、その激しさが維持されるのみとなります。

救済が即時的だというのがどのような意味で言われているのかと言うと、「どの瞬間であれ、もしあなたが、罪・罪悪感・恐れに対する執着を、たとえ一時的にでも、進んで手放そうとするなら、あなたは即刻あなた自身の心の中に常時現存している平安を体験できる」ということです。けれども、あなたが再び自我や恐れと同一化して罪悪感を選べば、その体験はなくなります。繰り返し練習することにより、あなたに準備ができてその意欲があるときに、あなたは、「そうしたことは全く罪などではなく、単に間違った選択にすぎない」ということに気づき、その認識が心の中で、次第にはっきりと意識されるようになってくることでしょう。

あなたは、パニックの発作に関して、何らかの専門的な助けを求めてこられたかどうかについて、述べておられませんが、あなたが自分の症状に対処するときに力を貸してくれる外界の存在(たとえば、医者、セラピスト、医療など)を探すことは、実のところ、もはや自分自身を「分離していて孤独な存在」とは見なさないというあなたの意欲の一つの表れとなり得ます。どんな形であれ、あなたが現在受け入れることをよしとする形で、あなた自身に必要な助けを受け入れようとする気持をもつこと(T-2.IV.4.5; M-5.II.2,3)は、自分に対し優しく接することであり、少しも悪いことではありません。