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「・・この思考の逆転をもたらすために聖霊が用いる大いなる学びの補助手段が、赦しである。」
『奇跡講座』まえがき から

                                   

  

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【質問】No.85 (org.#1195)

意図せずに人を悲しませてしまったとしたら、そこで学ぶべきことは何でしょうか?

 
もし他人を悲しませてしまうような間違いを、意図せずに犯してしまったら、その状況をどのように見るべきでしょうか? そこで学ぶべきレッスンは何なのでしょうか?
 

【回答】

もし謝ることが適切な状況であれば、まず最初にすべきことは、普通に謝ることです。

その次に真に重要な課題となるのが、その間違いから生じてくる諸々の想念を直視するということです。自己非難があるかもしれませんし、「自分は他人の幸福や苦悩の責任を負っている」と信じるような傲慢さがあるかもしれません。また、罪悪感、恥、自己防衛(=「私はこんなことをするつもりはなかった」という態度)など、その他いろいろな想念が生じるかもしれません。これらはすべて、自我に役立つ様々な形の動揺であり、心を外的なものごとだけに向けさせて、罪悪感の渦の中にとどめておくためのものです。自我の戦略を支援するこうした想念を抱いていることこそが、真の間違いなのです。

真の訂正は、「悪意のない」間違いのように見えるものの中に隠されている誤った信念を、見ようとする意欲を持つことから始まります。ということはつまり、もし自分が何らかの状況で動揺しているとしたら、その理由は、自分自身が動揺することを望んでいるからだということを認識しようとする意欲を持つ、という意味です。相手に謝った後も動揺する気持が続いていることに気づくとしたら、それは、「心自体が動揺することを選択している」ということをはっきりと告げる指標です。これが意味していることは、心が、目的ある選択をしていて、分離を実在させようとしているということ、そしてまた、聖霊の平安を受け入れずに葛藤の状態に居続けるために、罪悪感を生じさせようとしているということ -- これ以外にあり得ません。これが、学ぶべき重要なレッスンです。

ですから、その状況は赦しのレッスンとなります。そこにおいて、聖霊は、「心の外の如何なるものも、動揺の源ではない」ということを、心に思い出させます。また、他の人が経験した悲しみについても、同じことが言えます。

これは非常に重要なレッスンであり、これを習得するのは、見掛けよりもはるかに難しいことです。なぜなら、物理的宇宙の存在そのものが、「心は自らの外側に出て行って外的なものごとからの影響を受けることができる」という信念の上に成り立っているからです。

『奇跡講座』は、心の外側にある何かが心に影響を与えることが可能だという信念を、魔術と呼びます。奇跡は、原因となる力を心に戻すことを、私たちに教えます。

「奇跡は、原因となるという機能を、結果ではなく原因に返還することにおける最初の段階である。」(T-28.II.9:3) 

この原因と結果の原理が、このコースの思考体系の根本にあります。どんな具体的状況において赦しを実践しているときでも、そのことを心に留めておくことが大切です。

その要{かなめ}となるのは、どのような状況がどのような形の動揺の原因であるかのように見えていようと、その真の原因は心の中の選択だ、ということを思い出すことです。

「ワークブック」のレッスン5が、このことを明白な言葉で述べています。

「私は自分で考えているような理由で、動揺しているのではない。」(W-pI.5)

外側の「原因」がいかに真実性と説得力のあるものに見えていようと、このレッスンの言葉が真実だということを自分に思い出させようとする意欲があれば、それで充分です。それを思い出させることが、心の選択の力に対する心自体の信念を強め、外的なものごとの持つ力に対する信念を弱めます。

これを単純に適用していくことにより、すぐにそれと分かるよりもずっと多くのことが習得されます。実際、このことが、この世界にとっての唯一の目的を担っているのです。すなわち、赦しの教室となるというということです。

このように、あらゆる状況において学ばれるべきレッスンは同一であり、それは以下のとおりです。

神の子が、ただ自らの外で起こる出来事によってつき動かされているということは、あり得ない。彼に訪れる出来事が彼による選択ではなかったということは、あり得ない。彼の決断の力は、偶然性や偶発性により自分が居合わせたかに見える状況のすべてを決定するものである。」(T-21.II.3:1-3) 

状況や感情がどのようなものに見えていようとも、あるいは出来事の原因がいかなるものに見えていようとも、以上のことは真実です。私たちに求められていることは、ただこれを思い出すことであり、また、そのように思い出すことにより聖霊が招き入れられて、あらゆる葛藤の根幹にある間違った信念を訂正してくれると知ることなのです。