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「・・この思考の逆転をもたらすために聖霊が用いる大いなる学びの補助手段が、赦しである。」
『奇跡講座』まえがき から

                                   

  

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【質問】No.88 (org.#206)

赦し方の3つの例

『奇跡講座』は、私たちに、日々自分の想念に注意を払うようにと勧めていると思われ
ます。どのようにして日常的に赦しを実践すればよいか、事例を示していただけない
でしょうか。

【回答】

概して言えば、赦しの実践で行う必要のあることは、裁くことなく自分の自我の想念を直視することや、徐々に、そうした自我(間違った心)の想念にしがみつくことによって自分が支払っている代価に気づくようになっていくことです。あなたが見逃さないようにと促されているのは、裁きや咎めの想念、怒り・激情・苛立ちの想念、脆弱さ、犠牲、恐れ、罪悪感、不安、落胆などの想念、特別な愛や特別な憎悪の想念、そして、自分が他の人々から分離していると感じさせるあらゆる想念です。「ワークブック」のレッスンは、自分の心の中を探索してこうした想念を見つけるための練習の方法と、それらに気づくようになったら何をすべきかについて 具体的に教えています。(これは、その日のレッスンの主題により異なります。)

<赦し方の例・その1>

もしあなたが誰かに対して怒っていたり、イライラしていたりするなら、まずは、自分の怒りは、本当は、自分が思っているようなことにまつわるものではないと、思い出します。それが、「私は自分で考えているような理由で、動揺しているのではない」(ワークブック、レッスン5)と言うのと同じことです。

それから、次のように続けます:
「私は再び内なる教師(イエスか聖霊)からの愛を拒否し、それについて自分を裁き、罪悪感を感じた。さらにその後、そうした愚かさを笑って退けずに、自我の言うことに耳を傾けて、その罪悪感をこの人の上に投影した。それが理由で、私は怒りを感じている。この人が何をしたかには関わりなく、私の怒りは一つの解釈にほかならない。だから今、私には選択肢がある。罪悪感を手放すための助けを求め、共通の利害を見ようと真剣に努力することもできるし、さもなければ、自分が動揺していることについてこの人を責め続け、私の怒りは正当化されていると感じ続けることもできる。もし私が裁き続け、咎め続けることを選択するなら、それはそれでもかまわない。そのようにするなら、私の平安や幸福は長続きしないだろうが、それによって私が罪深い者や、天国の愛にふさわしくない者になったりはしない。」

レッスン134は私たちに、次のように勧めています。

「あなたが彼について思ったすべての邪悪な事柄をざっと考慮し、そのたびに、私はこれと同じことをする自分を責めたいだろうか」と自問する。(W-pI.134.15:3)

<赦し方の例・その2>

あなたが、自分自身や自分の近親者の健康や安全に関すること(例えば、肉体的、心理的、経済的な問題や、何らかの形の犠牲など)について心配していたり恐れていたりするときには、その問題を、あなたが設定したように見るのではなく、ありのままに見ることができるようにと、聖霊またはイエスに、助けを求めます。換言すれば、あなたは自分が、「罪のない被害者を見るようにプログラムされた自我の目で見ているに違いない」ということを思い出す、ということです。というのも、もしあなたが聖霊やイエスを自分の教師として選んでいたなら、あなたは何が起こっていても、不安になったり恐れたりしてはいないはずだからです。知覚とは常に解釈です

奇跡は、「ただ惨状を見つめ、そこに見えるものが虚偽であると、心に思い出させるだけである。」(W-II.13.1:3) 

ですから、あなたは惨状を見つめますが、自分の目が見ているものも自分が感じていることも否定しません。あなたはただ、自分が見ているものをイエス/聖霊ではなく自我に解釈してもらうことを選んだということを、自分に思い出させるのです。

「テキスト」5章の最後の段落に、このようにするための素晴らしいやり方が書かれています。その末尾に一連の声明が記されていて、私たちが完全に喜びに満ちていない時にはいつでもこれらについて考えるようにと勧められています。

それは「私は心安らかではないので、誤って決断したに違いない。」(T-5.VII.6)という言葉で始まります。赦しには常に、私たちが「自分は間違っていて、別の選択をする意欲がある」と認めることが伴います。実際に自分で別の選択をするところまでいく必要はありませんが、少なくとも、自分はものごとを見る見方において間違っていたということを認めなくてはなりません。時が経つにつれて恐れが減少していけば、私たちは、自分の間違った心による思考に気づいたならすぐに、喜んで、そして速やかに正しい選択をするようになります。

<赦し方の例・その3>

もしあなたが特別な関係の中に捕らえられていて、自分が何らかの物や人に完全に依存していると感じ、慰めや快楽や安心や交友や葛藤などの源となっているものを失うことを恐怖していると感じるなら、その場合もやはり、まずは何が起きているかについて正直になることから始めます。イエスは私たちが自分自身に対しても彼に対しても完全に正直であるよう求めています。

「注意深く見つめて、あなたが本当に求めているものは何なのかを見極めなさい。私たちは互いから何も隠してはならないのだから、あなたはこの点について自分自身に非常に正直にならなければならない。」(T-4.III.8:1-2)

あなたが、イエスからの愛をあなたの心の中の自分の唯一の実相として受け入れる順備がまだできていない、ということを認めるときに、その正直さがもたらされることになります。あなたは、その欠乏を補うために、そしてまたあなた自身が定義したあなたの必要を満たすために、外側の何かにしがみついてきたのです。自分がそのようにしていることについて自分を裁かないということが、あなたが自分の罪悪感を取り消すためのプロセスを進んでいくのを助けることになります。他の誰かや、物体や、状況などとの関係の目的について、自分自身に完全に正直であることが、赦しのプロセスに必要不可欠の部分です。その関係の目的に焦点を当てるとき、あなたは自分に準備を整えるのを助けていることになります。それは、聖霊の助けを求める準備ができて、自我の目的から聖霊の目的へと移行するための準備です。

換言するなら、今、あなたは、自分を限定された貧しき者 ― 神に創造されたままではないもの ― と見なしています。そして、あなたは、その誰かや物体などを、自分の必要を満たすためにそこに存在すると見なしています。そして、そう見なすこと自体が攻撃です。そのようにして、分離が強化されます。それが自我の目的です。ですから、あなたが神の愛をあまりに恐れているがゆえに自我と一体化しているときはいつでも、それが、あなたのすることになるということなのです。けれども、そのことによりあなたが罪人になることは、決してありません! 天国の愛が私たちの狂気によって変化することなどあり得ないからです。