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【質問】No.90 (org.#152)

自分が消えることに対する恐れ

 

〔質問・その1〕 

「テキスト」や「ワークブック」の中に、時間が終わるとき、私たちは「神の中へと消えていく」と書かれている箇所があります。

単刀直入に言えば、私は神の中に消えていくという考えは好きではありません。このように考えているのは私の自我であるということはわかっていますし、私たちはこのすべてを夢想しているだけだということや、私はすでに神の中に消えているということや、そうはいってもここにいる私はまだ消え去ってはいないということも、受け入れています。

それでも、私の本当の気持ちを言えば、自分が夢を見るのをやめるとき一切を失うのではないかと本気で恐れています。おそらくこれが、私が夢を見ることをまだ止めていない理由だと思います。

イエスや聖霊は、贖罪を通して、私を柔和なやり方で目覚めさせるということも理解していますし、それはよいことだと感じられます。それでも、「神の中に消えていく」というのは、無になってしまうことのように感じられるのです。

私のこの恐れについて、助けていただけませんか?

 

〔回答〕

『奇跡講座』を実践する人々の大半が、あなたと同じように感じています。彼らは、「神のこころの中へと消えていく」(W-pII.14.5:5)という言葉が忘却や無を意味しているのではないかと恐れています。このように感じることはごく正常なことです。ですから、あなたはそれを感じないようにと自分を説得する必要はないのです。

けれども、以上の前置きをした上で更に言えば、それは明らかに、愛の面前で消滅することを恐れる自我の発言以外の何ものでもありません。

自分の個人的存在を大事にするときはいつでも私たちは自我と同一化していますが、自我と同一化しているときには必ず、私たちは天国の一体性のもとに戻ることを恐れます。けれどもイエスは、私たちのジレンマ ― にせのジレンマですが ― に気づいています。ですから彼は、このコースの中の数多くの箇所で、私たちにその準備ができたときにのみ、私たちはこの悪夢から目覚めると保証しています。それは、私たちの恐れに配慮したプロセスであり、私たちの準備の度合いに応じて働くプロセスなのです。あなたが認識しておられるように、イエスのやり方は柔和で慰めに満ちています。

「自分が不意に引き上げられて実相の中に投げ込まれるのではないかと、恐れることはない。」(T-16.IV.8:1)

私たちが目を覚ます前の中間的な段階というものがあります。それは、私たちはここに住み続けるけれども罪悪感や不安や恐れは減少しているという段階です。憎悪や不満や、競合する利害やゴールがもたらす苦痛で自分の内側がいきり立っているときよりも、赦しているときのほうが気持良いということを学ぶにつれて、私たちはこの世界における新たな存在の仕方をますます居心地よく感じるようになります。私たちは次第に、自我が差し出している価値感との同一化を手放していき、そのかわりに、イエスが差し出している赦しの価値観と同一化するようになります。

換言すれば、私たちが自分の自己を失ってそのあとただ消滅するというのではなく、何と同一化するかについての私たちの選択が変化し、そのあと、私たち自身が、自分が選択したものそれ自体になる、ということです。

このプロセスを旅に喩えるなら、それは、数多くの立ち寄るべき地点は事前に計画されているけれども、厳密な予定表はないという旅です。

あなたは道すがら様々な場所に立ち寄り、新しい気候や景色に慣れていきます。そして旅を続けるうちに、自分の旅の案内人をよく知るようになり、気楽に彼と一緒に居られるようになります。彼は、あなたが本当はまだ去りたくない場所から去るようにとあなたに強要することは決してありません。そして、あなたが先に進むための準備ができるまで、一緒にそこにとどまります。

彼には、あなたに遵守させなくてはならないような予定表はありません。次に立ち寄る地点は今の場所よりも更にいいところだと彼があなたに告げるとき、あなたは喜んでその旅を続けることを選びます。なぜなら、それまでに彼があなたに見せてくれたすべては、なかなか良いものだったからです。

案内人に対するあなたの信頼は徐々に大きくなっていきます。時には、あまりに朝早くベッドから叩き起こされるので苛つくことがあるとしても、あなたはそのあとで、彼がそのようにしたのは、あなたに次の美しい場所を見せるために、出立を待ちきれなかったからだということを理解します。

道行きはしばしばガタつきますが、次の地点に心地よく落ち着いたときには、あなたはそのようなことは忘れてしまいます。そしてあなたは、案内人は実はあなたのことを良く知っていて、厳密に何があなたを幸せにするかを知っているのだということさえ、わかり始めます。

これが、イエスが私たちを導くやり方です。

彼と共に旅を完了したとき、私たちは何も失わず、自分で可能だと思っていたよりもずっと幸福になるということを、イエスは知っています。けれども、彼はまた、私たちが、未知なるものや、自分を確実に忘却の淵に追いやるものと思われるものの中へと飛び込むことを、いかに恐れているかということも理解しています。

ですから彼は優しく私たちの手を取り、私たちは「何も失わず、すべてを取り戻すことになる」と何度も繰り返して安心させながら、忍耐強く、私たちが自分なりの歩調で進めるようにしてくれます。

そのことが私たち自身の知覚となるまで、私たちはどこであれ今居るところに居続けることができますし、イエスがどの瞬間も私たちを愛していることを理解することができます。しかし、私たちはその愛の豊かさのすべてを体験することはできません。依然として恐れているために、その愛に抵抗しているからです。けれども私たちは、彼の愛を自分が受け入れる度合いに応じて体験します。時間は幻想ですから、このことにどれくらいの時間がかかるかといったことは問題ではありません。イエスの愛は、時間や場所に影響されるようなものではないからです。

 
 

〔質問・その2〕

 
『奇跡講座』によれば、私がこの夢から覚めるときには、この世界や、この世界の中にある私の愛するものの全てが消えていくということなのでしょうか? 

このように尋ねている理由は、私は人生を単に、罪、罪悪感、恐れの源とは見なしてはいないからです。私は、自分が愛した人々の思い出を失いたくありませんし、美や勇気や創造性の瞬間など、自分が存在している間に知ったものの記憶を、たとえそうした自分の存在自体が幻想に過ぎないとしても、失いたくないと思っています。

 

〔回答〕

私たちが夜間に見る夢からさめるとき、私たちはたいてい自分が何の夢を見ていたかを忘れてしまいます。「それは夢に過ぎなかった」ということがわかるからです。私たちが、神や天国から離れた個人としての人生の夢から覚める時、同じことが言えます。

もちろん、この目覚めに先行して、自分が夢を見ている主体だということを私たちが経験する一つの期間があります。その間に、自分も含めて全ての肉体的な存在は、夢の中の登場人物以外の何ものでもないことを認識します。自分は肉体ではなく、自分の愛する人々も肉体ではないこと、そしてまた、私たち全員が、私たちの真のアイデンティティーを反映する別のレベルにおいては、今もひとつにつながっているということを理解します。

そのとき、私たちを魅了するものは、神の子である私たちの無罪性が放つ輝くような美しさです。ひとつにつながった私たち全員を包んでいる愛、肉体のレベルにおいて経験され得るすべてを超越している愛が、私たちの心を完全に満たします。そのとき、私たちの自覚の中にはそれ以外の何ものも存在しません。私たちは、愛の現存を自覚することを妨げてきたものは何であれすべて喜んで手放しているからです。