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「・・この思考の逆転をもたらすために聖霊が用いる大いなる学びの補助手段が、赦しである。」
『奇跡講座』まえがき から

                                   

  

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【質問】No.92 (orig.#173, #422)

思考/考え/想念に関するQ&A2つ

 

【質問その1】

「想念/考え」とは何でしょうか。そして、「思考」とは何でしょうか。

【回答】

『奇跡講座』の中には、「想念/考え」や「思考」についての定義は出てきませんが、これらの言葉の使われ方から、それらの意味していることがある程度まではわかります。けれども、覚えておくべき重要なことは、イエスが使用しているのは、神の子が分離した状態において作り出した言語だということです。つまり、この言語自体が幻想です。したがって、これらの用語や概念は本質的に限定されたものです。イエスは、私たちに教えていることがらの意味においては一貫していますが、用語や言葉の使い方においてはそうではありません。ですから、何らかの特定の用語については的確な意味を突き止めるのが困難だという場合があります。

このコースのいたるところに、深遠で豊かな理論的記述や、挑発的とさえ言える理論的記述があるとはいえ、このコースは、哲学的または学術的な論文として意図されたり提示されたりしてはいないのです。

『奇跡講座』の中で太字になっている「想念」は、つねに神の心の内容を指しています。それ以外の「想念/考え/思考」は、つねに、分離した神の子の心の内容を指しています。イエスは、時おり、以下に見られる通り、私たちの真の実相の無限なる性質を表現するために、「想念」という言葉を使っています。

「・・・・あなたはたとえかすかにでも、神は想念であり、それゆえに神への信仰は共有することによって強められるということを、認識しているからである。あなたにとって受け入れるのが難しいのは、父と同じようにあなたも想念だという事実である。そして父と同じくあなたも、自分自身を完全に与えながらまったく何も失わず、ただ得るのみでいることができる。」(T-15.VI.4:4-6)

「テキスト」の最後の章(第31章)においては、「概念的な思考」というものを取り上げて、それが主な問題だと指摘していますが、それは、「テキスト」の初めの方に出てきた以下の文

「意識は知覚のレベルのものであり、分離の後に心の中に生じた最初の分裂であった。それにより、心は創造する主体ではなく、知覚する主体となった。意識は、自我の領域と見なすのが正しい」(T.3.IV.2:1,2)

・・・ を踏まえた発言です。

そして、「テキスト」の第31章では、以下のように述べられています。

「救済とは、概念からの脱出にすぎないと見なすことができる。救済の関心の対象は、心の内容ではなく、心は思考するという単純な声明のみである。」(T.31.V.14.3,4)

この説明が何らかの助けになることを願っています。あなたの質問がどの方向に向かって為されているのか、私たちには確信がないため、このような形でお答えしました。残念ながら、教科書通りの答えはありません。
 
 

【質問その2】

『奇跡講座』のテキストの第7章、VI.の第二段落を読んでいて、「心」と「思考」は相互に互換性のある言葉(つまり、どちらも「考える」ということを行うもの)であるという印象を受けています。これは正しいでしょうか、間違っているでしょうか?

【回答】

その通りです。「心」とは、「考えることを行うもの」だと考えて差し支えありません。それは、時間と空間の外にあり、肉体の中の器官である頭脳からは区別されるものです。

心による思考は、その決断する力を通して、「自我の思考体系」か「聖霊の思考体系」かのどちらかを肯定します。そして、この種の思考というのは、分離した神の子の心のみの機能であり、それゆえに、それは幻想の中のものであるということを、常に、覚えておくことが必要です。

ですから、天国における「キリストの心」には、考える対象は何もないと言うことができます。神秘思想家たちが述べてきたように、実相における完璧な一体性に相当するものは、私たちの人間としての経験の中には存在していません。