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「・・この思考の逆転をもたらすために聖霊が用いる大いなる学びの補助手段が、赦しである。」
『奇跡講座』まえがき から

                                   

  

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【質問】No.93 (orig.#652)

自我の想念は、分析すべきなのか、明け渡すべきなのか

 
私がこれまで勉強してきて学んだことは、私たちは心の中を見て自分の諸々の考えに目を向けなければならない、ということでした。そして、外側に見えているものは、本当は、最初に内側にあったものが、外に投影されたものだということや、兄弟は自分自身を映し出す鏡であると見なすことができる、ということも、わかってきました。

私たちはそうした考えを分析すべきなのでしょうか、それとも単にそれらを明け渡すだけでいいのでしょうか。

たとえば、私が誰かを羨ましく思っているとします。そのとき、私はその考えを単に眺めて、「明け渡す」べきなのでしょうか、それともそれについて質問を投げかけるべきなのでしょうか? たとえば、「私はなぜ羨ましく思うのだろうか?」、「これは何の投影なのだろうか?」、「羨望とは、本当は何を意味しているのだろうか?」、「私がこれを他人に付与してしまったのは、自分のことを無価値だと思っているからなのだろうか?」等々です。

【回答】

『奇跡講座』は、自分の想念を分析することを求めてはいませんが(T-15.X.5参照)、それらを注意深く見つめて、疑問視することは求めています。それらは、自我による分離の選択を、私たちが具体的にどのように防衛して、具体的にどのようにして自分の認識の中でこの世界や肉体を実在させることをわざわざ選択しているのかということを見せてくれます。

したがって、自分の想念を正直に見つめることは、自分自身や他者について自分が抱いている信念、そして、とりわけ重要なのは神についての自分の信念がどのようなものかという、非常に重要な情報をもたらしてくれます。最も効力のある自我の力動の一つが「否認」ですから、その思考体系を見ようという意欲をもつということが、それを取り消すための一つの重要な要素です。だからこそ「テキスト」は次のように求めているのです。

「だから、あなたの暗い秘密の想念のすべてを聖霊のところに運び、それらの想念を聖霊と一緒に眺めなさい。聖霊は光をもち、あなたは闇をもっている。あなたたちの両方が一緒にこの二つを見るとき、それらは共存できない。」
(T-14.VII.6:8-10)

「聖霊と一緒に眺める」というのは、その想念を超えて、その想念が仕えている目的を見るということです。一つひとつの想念の背後に隠れているのが、「自我と同一化する」という決断です。私たちの想念は、このコースが自我の戦略について語っているあらゆることがらを、つまり、自我の力動やゴール、自我の「法則」、そして自我がもたらす苦痛に満ちた諸々の結果を、私たちに見せてくれます。

あなたが、「羨望」という例において自分自身に尋ねている質問は、まさに、私たちが問うように求められている質問です。

「このコースを学ぶには、あなたが抱いている価値観のすべてを疑ってみようとする意欲が必要である。一つでも隠されて曖昧にしておかれるなら、それはあなたの学びを危うくするだろう。中庸{ニュートラル}な信念というものはない。」
(T-24.in.2:1-3)

繰り返しますが、重要なことは、聖霊と一緒に眺めて、疑問を発することです。それはつまり、その想念や価値判断を癒してもらおうとする意欲を持って見るということであって、自分が惨めな罪人であると証明しようとして見るのではありません。ワークブックの初めの方のレッスンが教えているように、私たちの考えはそれ自体では何の意味もありません。(W-pI.10) 私たちは、自分の想念を罪深いと判断して、隠し続けていることによりそれらの想念に重要性を付与しており、その重要性が、それらの想念に私たちを支配する力を与えているのです。

「羨望」も含めて、自分の諸々の判断/裁きや感情をつぶさに見ていくとき、あなたが自分自身について抱いている「自分は神の愛にふさわしくない」という隠れた信念を見ることになります。他者の上に投影されているすべての判断/裁きは、自分自身についてのこの誤った判断/裁きから生じていている「自分は無価値だ」という痛切な思いを、その源としています。

私たちが見ていくにつれて、そこに露見されるものは、意外なものであったり、しばしば苦痛に感じられるようなものであったりします。けれども、自分自身と神の愛の間に挿入した障害の一つひとつについて、それらが癒されるようにそれらを直視しようという意欲を持つまでは、私たちは自分自身についての真理も、兄弟についての真理も見ることは無いでしょう。覚えておくべき大切なことは、イエスは私たちがこのプロセスをゆるやかに進んでいくように、いざなっているということです。

「私たちには、自我の思考体系をもっと詳しく見る準備ができている。なぜなら、私たちが共に居れば、それを一掃できるランプがあるからである。そして、あなた自身も自分はそれを望まないと気づいているので、準備ができているはずである。これを行うにあたり、私たちはきわめて冷静でいよう。私たちはただ正直に真理を探しているだけだからである。」(T-11.V.1:3-4 下線はワプニックによる。 )