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【質問】No.100 (orig.#1034)

「不幸せな夢」と「わずかな意欲」

 
なぜ神は「不幸せな夢」を見る能力をもった神の子を創造したりするのでしょうか? これは、わが子が「自由意志」をもつようにしたかったという神の欲求に関連があるのでしょうか?

また、「テキスト」には、

「聖なる瞬間に近づく前に、自分の心から恐れと憎しみをすべて取り除いておこうとしてはならない。それは聖なる瞬間の機能である。聖霊の助けを求める前に自分の罪悪感を見過ごそうしてはならない。それは聖霊の機能である。あなたの役割はただ、すべての恐れと憎しみを取り除いてもらいたいし赦されたいというささやかな意欲を、聖霊に差し出すことだけである。」(T-18.V.2:1-3)

・・・とありますが、これが意味していることは、私たちは、聖なる瞬間に近づく前に、自分で赦す必要はないし、聖霊に助けを求める前に自分で赦す必要もない、ということなのでしょうか。私たちに必要なことはただ「わずかな意欲」をもって自分自身の守りを少しだけ緩めることであり、そうすればあとは聖霊がやってくれるということなのでしょうか。また、そうすれば聖霊が私たちに、どうすれば自分自身を赦せるかを教えてくれるし、私たちの諸々の恐れの夢を、目覚めへと向う途上の「幸せな夢」へと変化させる方法を教えてくれる、ということなのでしょうか。
 

【回答】

ご質問の最初の部分は、『奇跡講座』を学ぶ人々のほとんど誰もが尋ねる質問です。この質問の根底にある信念体系は、「夢は実在していて、夢を見ている当事者に不幸せな結果をもたらしており、このような惨めな状態について責めを負うべきは神である」というものです。いったんこの分離の想念が深刻に受け止められたなら、この信念体系は一なる子の全体に共有されます。それは、「分離は実際に起こったし、悲惨な結果をもたらしてきた」という宣言を土台とするものです。さらに、「神はこれについて責任があるのみならず、それについて何もしてくれない」という宣言でもあります。この宣言の中にこそ、分離にまつわる自我の嘆きの物語があります。

分離は可能だと信じることを心が選択したなら、心が自らの源と共有している創造的な力は、分離か一体性かのどちらかを選択する能力の中に表現されます。

けれども、実在するもの(一体性)と実在しないもの(分離)の間でどちらかを選ぶというのは、真の選択ではありません。それは、一方を受け入れれば他方を否定しなければならなくなるという種類のものです。真理の否定は、『奇跡講座』が心の創造的力の誤用と呼んでいるものです。一方で、自由な意志とは、「真理を選択すること/誤りの否定」と定義されています。

「誤りの否定は真理を守る強力な防衛であるが、真理の否定は、誤った創造すなわち自我の投影をもたらす。正しい心に仕えているなら、誤りの否定は心を自由にし、意志の自由を再び確立する。意志は、真に自由であるとき、真理のみを認識するので、誤創造はできない。」(T-2.II.2:5-7)

ですから、自我の不幸せな夢を選択することは、自由な意志の否定ということになります。

「神は分離のことを知らない」(P-2.VII.1:11) のですから、神は、わが子の「選択」のことや、ご自身が彼と共有している意志ではない何らかの意志については知りません。また私たちは、神のことを、わが子のために何かを欲する存在として語ることはできません。なぜなら、「欲求」とは、必要を示唆するもの、すなわち何らかの欠乏感を示唆するものだからです。神がわが子と共有する完璧な一体性という一元的な状態の中には、いかなる必要もどんな種類の欠乏もありません。神はただ、わが子と共有されている完璧な一体性と完全なる愛と一なる意志を知るのみです。これは、二元性の夢の内側からは理解することが不可能な、一致の状態です。

分離は可能だと私たちが信じている間は、『奇跡講座』は私たちが今自分が居ると思っている場所に合った説明をしてくれます。つまり、私たちが分離しているかに見えている状態というのは、神の子が見ている夢である、と説明しています。そしてその夢は、神の子が父なる神と共にわが家でくつろいでいる(T-13.VII.17:7)間に見ている夢であり、その夢の中の悪夢のような逃走や冒険については神は何も知らないと説明されています。

まさにあなたが言われる通り、私たちに求められているのは意欲だけです。実は、あなたが引用しておられる一節は、私たちは意欲をもつこと以外に何もすべきではない、と言っているのです。私たちには自分自身を赦すことはできませんし、罪悪感や恐れや憎しみを自分の心から取り除くこともできません。私たちにできることは、自分が赦しを必要としていることに気づくことだけです。つまり、自分が抱く裁きの想念を、自分が分離を選んでしまったことからくる罪悪感の投影として眺める意欲をもつことによって、それに気づくということです。私たちがそうした裁きの想念を直視するまでは、自分が分離を選択していたということは忘れ去られています。赦しという奇跡は、それらの裁きが投影であるということをありのままに認識し、その責任を心の外側の外的なものごとに転嫁して正当化しないという意欲から始まります。

私たちがやることとしては、それだけで充分です。なぜなら、それだけでも、見かけほど容易なことではないからです。

この世界は、平安の欠如についての「正当な」外的理由には事欠かない戦場です。「心の外側のいかなるものも平安を奪い去ることはできない」と受け入れることを学ぶというのは、決してたやすい課題ではありません。おそらく、だからこそイエスは、赦しについての彼の教えを表現するには「奇跡」という言葉がふさわしいと考えたのでしょう。

私たちが自分の役割を果たすとき、それ以上の努力をしなくても、他のすべてはそれに続きます。それ以上の何かをしようとすることは、単に、自分を贖罪の責任者にしてしまったことを意味します。そうすると、私たちがそれを受け入れないことは確実となります。この点に関して常に役立つのは、私たちに与えられているただ一つの任務を思い出すことです。

「あなたの為すべきことは、愛を探し求めることではなく、ただ自分自身の中に築き上げてきた愛を阻む障壁のすべてを探して、見つけ出すことだけである。」(T-16.IV.6:1)