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【質問】No.103 (orig.#601)

「啓示」について

 
聖書は啓示の書である「黙示録」で最後のクライマックスに達します。『奇跡講座』は、私たち自身がキリストであると知る「聖なる瞬間」において啓示へと至る道に沿って、私たちを前進させようとしています。このコースが啓示という言葉で意味しているものは、これなのでしょうか? もしそうだとしたら、依然として肉体をもっている間に、その経験は可能なのでしょうか? それはキリスト意識の中で知覚されるのでしょうか?

 

【回答】

『奇跡講座』が啓示という言葉で意味していることは、聖書の場合とは違っています。新約聖書の「黙示録」は、イエスの再来に関連した未来の出来事や、この世界の終焉について語っています。それは、この世界と肉体が実在していると信じ、罪からの救済の実在性を信じることに基づいています。『奇跡講座』においては、啓示は「神の愛の体験」と理解されていて、その愛は常に神から神の子へと伝えられており、一度も変化したことのないものです。

啓示は、まだ肉体の中にいる間に経験され得るものですが、肉体に属するものではありません。それは、神から伝えられるものであり、それゆえ心によって経験されるものです。知覚されるものではありません。

「それは神からあなたへと向かうが、あなたから神へと向かうことはない。」(T.1.II.5:5)

啓示が可能である理由は、分離が本当に起こったわけではなく、本当は私たちは神とひとつだからです。この意味においては、啓示は、私たちの自然な状態なのですが、私たちは、それに逆らう選択をすることにより、それを自覚できないようにしてしまいました。

「あなたは、自分の創造主と親交{コミュニケーション}を行わないという最も不自然な習慣を自分に教えてしまった。」(T.14.III.18:1)

 けれども、父なる神は常にわが子(=私たち)との親交を保っています。

「神はご自身の心を伝えることによって一つひとつの心を創造し、それにより、どの心をも永遠に神の心と意志を受け取る経路として確立した。」(T.4.VII.3:7)

したがって、神との親交{コミュニケーション}は一度も途絶えたことがないわけですから、私たちの機能は、啓示を必死で求めることでも追求することでもありません。そうではなく、「あなたの為すべきことは、愛を探し求めることではなく、ただ自分自身の中に築き上げてきた愛を阻む障壁のすべてを探して、見つけ出すことだけである。真実を探し出す必要はないが、虚偽を探し出すことは確実に必要である」(T.16.IV.6:1,2)ということなのです。

こうして、いつもと同じく、私たちは自分の唯一の任務、すなわち「赦し」へと戻ってきます。これが意味していることは、自分が抱くすべての裁きや攻撃の想念の中に、愛の啓示に対する自分自身の恐れを認識することを厭わない、ということです。そうすれば、私たちには、聖霊の知覚が私たちのそれと入れ替わることのできる機会が得られます。そして、遮断されていたものが、顕現されます。重要なことは、このコースの中でイエスが教えている赦しのプロセスを信頼し忠実でいるということです。そのようにしてのみ、分離の想念が癒され、恐れが縮小され、私たちは、イエスが述べている通り、彼が私たちを導いていこうとしている経験を「否定することを徐々に望まなくなっていく」(T.11.VI.3:6)のです。

「父と子がひとつであるという啓示は、いずれは誰の心にも訪れる。だが、その時がいつなのかは、その心自身により決められており、誰かに教えてもらうものではない。」(W.p.I.158.2:8)

以前のQAでも論じた通り、「キリスト意識」という言葉は、『奇跡講座』の中では使われていません。意識とは、分離・分裂した心の状態であり、意識は知覚します。私たちのキリストとしてのアイデンティティーは、「知られるもの」であり、「知覚されるもの」ではありません。そして、それは、意識の領域全体を超越したものです。(参照:T.3.IV.2, T.3.III.1:10, T.11.VIII.8:9)