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【質問】No.108 (orig.#191)

すべての愛の関係が「特別な」関係なのですか?

 
<特別な関係>についてご意見を伺いたいと思います。愛がその中にある関係はどれもみな、<特別な関係>なのでしょうか?  たとえば、自分の子供たちとの関係さえも、そういうことになるのでしょうか?

また、赦しのためには、その関係の中の片方の人が『奇跡講座』について知っているだけで十分なのでしょうか?

 

【回答】

『奇跡講座』は私たちに、「すべての関係が特別であり、それを私たちが愛の関係と定義しようと憎悪の関係と定義しようと、そのことに変わりない」と教えています。自我は、「神から分離する」という私たちの決断にまつわる罪悪感を、他者の上に投影するためにあらゆる関係を使用します。関係を投影という目的のために用いることは攻撃であり、それを『奇跡講座』は憎悪と呼んでいます。したがって、どの<特別な関係>も実際には憎悪の関係であり、ある場合にはそれが「愛」のごとく偽装されているだけなのです。自我は、あらゆる人を肉体として認識しますし、肉体としての一人一人と関わります。そのような関わり方は、『奇跡講座』によれば、「神の子に対する攻撃」のもう一つの形なのです。「神の子」とは「肉体ではない存在」だからです。

罪悪感の投影と、人々を肉体として知覚するということが、<特別な関係>の根本的な特徴です。私たちは意識していないかもしれませんが、これらが、すべての関係の中で働いている力動です。

この概念を自分の子供たちとの関係に当てはめて考えるのは難しいことです。この世界は、「親」という役割を賛美してきましたし、私たちは子供たちや家族との関係を、自我の定義する「愛」を表現するために用いているからです。子供たちに与えられる保護や気遣いや配慮などは、『奇跡講座』の定義する愛とは違っています。それらは、自我が「ニセの愛」として作り上げた力動の一部であり「ニセの愛」というのは、実際には神の愛の代替なのです。この代用ということが、<特別な関係>のもう一つの重要な特徴です。

自分が神から分離したと思ったことから生じた空虚さを満たすために使用されるものは、人であれ他の何かであれ、このコースによれば「特別」ということになります。子供たちは、自我の計画にまさに打ってつけの存在です。というのも、子供たちは、彼らの成長と存続のための必要をすべて満たしてくれるはずの両親により「生命」を与えられ、全面的に自分以外の人々の世話にならざるをえない形でこの世界にやってくるからです。親としての役割がうまく果たせないという状況も、部分的には、「子供たちも自分たちの必要に応えてくれるだろう」という親の側の期待によるものなのです。

この相互依存においては、どちらの側も、自分自身の必要を満たすために、犠牲を払うことに同意しているわけですが、自我によれば、そうした相互依存があらゆる人を安全で「幸せ」に保つことになる「取引」であるということになっています。それは、時にはうまくいくように見えますが、激しい罪悪感に突き動かされているので、しばしば、大きな苦痛や葛藤に満ちたものとなります。

『奇跡講座』は、それを以下のようにまざまざと描写しています。

「すべての特別な関係は、罪をゴールとしている。なぜなら、そうした関係は実相との取り引きであり、実相に向けて、見かけ上の融合が調整されるからである。これを忘れてはならない。取り引きをするとは限界を定めることであり、限定された形で自分が関わる兄弟の誰のことも、あなたは憎んでいる。あなたは時には自分自身に支払いを要求し、おそらくそれよりも頻繁に他者に支払いを要求して、「公平さ」の名において、取り引きを保とうとするかもしれない。そのようにして、「公平さ」の中で、あなたはその関係に受け入れられている目的がもたらす罪悪感を緩和しようとする。だからこそ、聖霊はその関係の目的を、聖霊にとっては有用で、あなたにとっては無害なものへと、変えなければならないのである。」(T-21.III.1)

ここにおいては、『奇跡講座』が教えているすべての場合と同様に、その関係の中の片方の人だけがこのコースを学んでいれば十分です。『奇跡講座』の教えの実践が求めているのは、その一人の人が、自分の関わるどの関係においても、すべての裁きの想念をしっかりとよく見て、そうしたすべての想念の中で自我の目的が働いてるのを認識すること、それだけです。

その目的は常に、分離を実在させようとすることであり、「私たちは神が為しえたよりもずっとうまく自分の必要に合致する自分たちの世界を作り出すことができる」という信念を強めることです。

私たちはこれを、他の誰のためでもなく、自分自身のためにやっているのです。こうした自我の企みを認識し、自分の苦痛は、実は、自分自身が自我による分離や罪悪感や攻撃の思考体系に加担しているところからきているのだと理解し始めるとき、私たちには、聖霊の方に向かって、自我が作り出したすべてを再解釈してくれる聖霊の思考体系に助けを求めるチャンスが到来します。

その助けというのは、夢の中にいる他の誰かを変えるためではなく、私たちが聖霊の目的を受け入れることができるようになるための助けです。このことは、私たちの関係の中に、形の上ではどんな変化ももたらさないかもしれませんが、その関係の目的は変容することになります。

「・・・・・聖霊はあなたから特別な関係を奪うことはせず、それらを変容させようとする。そしてそれが意味するところはただ、聖霊はそうした関係に、神から与えられている機能を取り戻させるということにすぎない。あなたがそれらに与えた機能は、明らかに、幸せにすることではない。しかし、神聖な関係は、神の目的を共有しており、その代替を作り出すことは目指さない。あなたがこれまでに作り出した特別な関係はどれも、神の意志の代替であり、神の意志とあなたの意志が異なっているという幻想のゆえに、神の意志の代わりにあなたの意志の栄光を讃えている。」(T-17.IV.2:3-7)

こうした練習を積んでいくと、最終的には、<特別な関係>がもたらす苦痛は、<神聖な関係>がもたらす平安へと入れ替わっていきます。