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「・・この思考の逆転をもたらすために聖霊が用いる大いなる学びの補助手段が、赦しである。」
『奇跡講座』まえがき から

                                   

  

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【質問】No.111 (orig.#578)

「すべてが幻想なのであれば、選挙で投票することに意味があるのでしょうか?」

私はこれまで、大統領選の候補者の一人に対して、かなり強い反感を抱いてきました。けれども今では、それは自我が暴れまわっている状態だったということがわかります。私は別の見方で見たいと求めたので、今では、この候補者は怖がっていて、愛を求めているのだということがわかります。私の感情はおだやかなものになってきていますし、時には、この人物を祝福することもできるようになりました。

けれども、私は「投票する」ということ自体がよくわからなくなっています。

ここは本当に幻想の世界なのですから、なぜわざわざ私は投票などしなくてはならないのでしょうか? この11月に行われる大統領選を、私はどのように眺めればいいのでしょうか?

 

【回答】

私たちは自分がこの世界の中で生きている人間だと信じているのですから、「この世界は幻想である」ということが事実だからといって、そのことが、私たちが携わる様々な普通の活動をやめるべき理由にはなりません。眠ること、食べること、働くこと、運動すること、映画を見ることと同じく、投票に参加することも、ごく普通の活動です。私たちは自分がここにいると思っているから、こうした様々なことを行なっているわけですし、それらは人間としての私たちの体験の一部をなしています。

テキストは初めの方で、自分が肉体と同一化することを選んだということを否認すべきではないと述べています(T-2.IV.3)。実際のところ、それを否認することは、聖霊による癒しのカリキュラムに必須の「学びの機会」を、自分自身に拒否することになってしまいます。

政治の世界、特に選挙という場は、多種多様な価値判断がずらりと並んでいるのを見ることができるという非常に面白い機会を提供してくれます。それにより、そうした想念を聖霊に委ねて訂正してもらうことが可能になります。選挙にまつわる感情の高ぶりを免れることのできる人々は、ごくわずかしかいません。そうした感情には、「巻き込まれまいとする固い決意」といったものから、「なんらかのグループや候補者たちに好意または反感を抱く」という、強い価値判断にいたるまで、様々なものがあります。

人々が投票したり棄権したりする理由はたくさんあると思いますが、『奇跡講座』の形而上学は、そうした行動に指針を提供するものではありません。このコースは、赦しのプロセスを通して私たちの心を変えることだけを教えており、行動を変えることを教えてはいません。これが意味していることは、自分の信念や判断/裁きの背後にある自我の思考体系を、否認せずに、認識する、ということです。そうすることで、聖霊がそれらを変容させることが可能になるのです。

『奇跡講座』は、この世界は自我の領域であり、天国の代替として選択されたものだと教えています。私たちは、この世界の中での私たちの生き方を統治する政治的な構造というものを、秩序ある社会の土台として確立しました。ですから、政治が自我の思考体系のきわめて強力な象徴であり、政治家たちが顕著な権威者たちであるというのは、もっともなことなのです。政治も政治家たちも、自我の非常に重要な基盤となる「権威の問題」を維持するための肥沃な土壌となっているのです。

分離の実在性を信じることを選ぶとき、私たちは、自分を個人として創造したいと望んでいるからこそ、その選択をしています。そして、そうすることにおいて、私たちは神の力を横領していると信じています。

「権威についての議論は、実は、作者は誰かという問題である。あなたに権威の問題があるとき、その理由は常に、自分は自分の作者だと信じて、自分の妄想を他人に投影しているからである。その後あなたはその状況を、作者としてのあなたの立場を奪おうとする他者が、文字通りあなたと戦っている状況として知覚することになる。これが、神の力を横領したと信じているすべての者たちの根本的な誤りである」(T-3.VI.8:1-4)

私たちは、自分が誰であるかについて、神から教えられた通りの存在(=神の無垢なるひとり子)であることを受け入れずに、自分は分離した肉体であると、自分で決めています。この「罪」を犯したことにまつわる罪悪感が権威者たちの上に投影され、私たちはありとあらゆる種類の「罪」について、それらの人物を非難します。たとえば、彼らが「嘘をついた」、「私たちを見捨てた」、「私たちを裏切った」、「私たちの必要を無視した」、「私たちから盗んだ」・・などといった「罪」です。これらは、すべて、政治家や政府やその他の主要な権威者たちに向かって投げつけられている非難の中でもよく見られる例です。

これらの一つ一つの非難の中に、私たちは、加害者というテーマと、権威にまつわるすべての感情を見出しています。これは、神を相手とする私たちの権威の問題が投影されたものです。それが「もろもろの悪しき事の根」(T-3.VI.7:3)です。なぜなら、それは、神から分離して、自我と同一化するという原初の決断の中で生じたものだからです。

ですから、選挙や政治家たちや政治全般にまつわるすべての想念や感情の背後に潜んでいるのは、「私たちのアイデンティティーの作者は誰か」ということについての神との葛藤なのです。政治的な論争や議論が白熱したものとなるのは当然のことです。すべての当事者たちが「正しい」のですから。自我は、私たちが肉体であることやこの世界にいるということについて正しいと言いますし、自由主義であっても保守的であっても正しいし、数かぎりない形で互いに異なっているということについても、そして、投票することもしないことも正しいと、私たちに告げます。聖霊は、私たちは自分が誰だと思っているかについて間違っていると言い、唯一、聖霊の定義する私たちのアイデンティティーと同一化することを学ぶことにおいてのみ、私たちは正しくありえる、と告げます。

これから数か月間続く選挙活動を眺めていくとき、私たちは候補者と有権者のどちらに対しても抱いているすべての感情や裁きの想念を見て、それらの中に、私たち自身が大切にしている分離という選択を認識することができます。これが、別の見方で見る方法であり、私たちの間違った判断について自分を赦すための最初のステップです。どちらかの候補者の方が「大統領に適している」というあなたの考えがどんなに正しいとしても、もし「もう一方の人物」のことを、私たちの苦しみに責任のある罪人として裁くとしたら、私たちは間違っています。それが11月の選挙のときに、そしてまたその他の全ての物事においても、私たちが学ぶべき重要な事柄なのです。