11月 222014
 

2003年春のワークショップから、2つのQ&Aを抜粋したビデオです。

(1)Q&A1: 「誰もが正しく、誰もが間違っている」  (0:17 ~ 5:22) 

(2)Q&A2: 「自我の不意打ち」  (5:23 ~ 10:03)

●  このワークショップは、シェークスピアの作品に基づく『奇跡講座』解説シリーズの一つで、
『マクベス』を取り上げています。「マクベス」への言及や、「血」や「血なまぐさい」などの
表現がでてくるのは、そのためです。

●  4:38 のあたりで、「チャネリング」という言葉がでてくるところはジョークなのですが、
これを日本語にしても全く可笑しくないので、少し説明を加えます。一般に、『奇跡講座』が
チャネリングと一緒くたにされたりする傾向があるので、常日頃このコースはそういったもの
ではないと説いていたワプニック先生は、時々、わざとこのように「チャネリング」などと
いった言葉を使って冗談を言うことがありました。この場面は、その一例です。 

● 『奇跡講座』からの引用文は、次の1箇所のみです:

  「私は自分で考えているような理由で、動揺しているのではない。」(W-pI.5.)

  1 コメント

  1. ◆ このビデオの最初のQ&Aの最初の方で、質問者がなぜ憤慨しているのかに
    ついて、KMさんから質問がありましたので、このコメント欄でお答えします。

    KMさんの質問は太字、その後の >> に続く部分が回答です。

    ====================================

    この動画を今何度も見ているのですが、実践そのものが表現されて
    いるように感じて、加藤さんに詳しく解説をして戴きたいのです。

    パートナーさんの質問をするという設定で質問した方の自我が、
    2分4秒ごろから憤慨しだした様に、私は感じたのですが、

    質問の角度は「完全に自分の罪が実在している」という認識からの質問だ
    ということの理解は合っていますでしょうか?

    >>
    そこまではこのビデオだけからはわかりませんが、少なくとも、
    質問者は、「怒りを正当化できるような、何らかの例外的な状況が
    あるのではないか(=あってほしい)」という期待をもって、
    この質問をしたのではないかと思います。

    ですから、ケン先生が、「赦し」という目的に即して、聖霊の見方
    である「すべての人々は同じ」という観点の話をし始めると、この質問者は、
    自分が考えていたことから論点が離れていってしまうような気がして、
    混乱し始めたと思われます。

    2分4秒からこつ然と

    「そうゆう状況を自分の生活範囲や人生に取り込んだということの責任を
    自分で受け入れるべきではないのですか?」

    という質問がでてきますが、これは何をどのように理解していて
    この様な質問をしているのでしょうか?

    >>
    この考え方はどこからきているかというと、
    T-21.II.2:3の「私が見ているものについての責任は、私自身にある」と
    いう箇所です。

    これをこの質問者による質問の文脈にあてはめると、「自分が激怒
    して当然と思えるほどひどく間違っている相手がいたとしたら、その
    ような状況が自分の生活の中で起こっているという事実について、
    その責任は自分にあるということを認めなければならないのでは
    ないでしょうか」ということを聞いています。

    それに対する答えが、「すべての人々は同じ」という包括的な話に
    なってきたため、もっと自分の状況に即して答えてほしいという
    気持ちから、このような発言になったのかもしれません。

    この質疑応答のやり取りが、余りに自我が憤慨し始めていますが、
    ケネス先生が何か大切な姿勢や解説をしてくれているので、詳細に
    知りたいと感じまして、もう少し詳しく解説戴けないでしょうか。

    >>
    「私が見ているものについての責任は、私自身にある」(T-21.II.2:3)と
    いうテーマについてはもっと詳しい説明が可能ですから、ここでそのすべてを
    述べることはできませんが、要点は、「自分の目の前に見えている状況に
    ついて、自分に責任があるということではなく、その状況について自分が
    どう解釈するかということに自分の責任がある、ということを意味している」
    という点です。

    ケネス先生が、「それが以前、あなたをトラブルに巻き込んだことが
    あったのではありませんか?と言葉掛けをした際、にっこり質問者の方の
    (恐らく自我と同一視が起っている状態)が笑って「よくぞ分かってくれました」
    と微笑んでいるようにお見受けしましたが、これは質問者の方(憤慨しているの
    は自我)のパートナーさんが何かのトラブルに巻き込まれて、そのお陰で自分も
    巻き込まれたので、巻き込まれることに対して自己責任(パートナーさんが
    存在している前提として)があるということを主張しているという理解で
    よろしいでしょうか?

    >>
    「それが以前、あなたをトラブルに巻き込んだことがあったのでは
    ありませんか?」という問いかけは、先生の口調と質問者の応答から
    察するに、以前(別のワークショップなどで)、この同じ質問者が、
    このテーマ(T-21.II.2:3)について質問したことがあって、それを覚えて
    いた先生がそれに言及したものと思われます。
    (素直に「ありました」と答えているのは、その時のことを覚えていて
    くれたことに対して喜んで微笑んでいるのだと思います。)

    そして、「トラブルに巻き込んだ」というのは、自分の目に見えている
    目の前の状況について、「自分がそれを引き起こした」という意味で
    「責任がある」というふうに理解することには問題がある・・ということに
    基づいた発言です。なぜトラブルが起こるかというと、実際に起こったこと
    の責任が自分にあるのなら、ネガティブな状況に居合わせた場合(たとえば、
    交通事故など)、自分がそれを引き起こしたということになって自責の念に
    かられることになり、自我の裁きから抜け出せなくなるからです。

    「でも、その悪行と共に自分の人生に勝手に入り込んでくる
    他者はいないですよね?」
    「でも、これは相手との間で起っていることについての自分の解釈です。」
    「そして、その解釈の責任は自分のみにあるはずです。」
    これらの質問で、この質問者の方の自我は何を表明しているのでしょうか?
    したいのでしょうか?

    >>
    これらの発言からも、この質問者は、T-21.II.2:3についてのケン先生の
    解説を以前に聞いたことがあるに違いないということがわかります。
    けれども、彼女はその解説の真意について誤解しているようで、そのため、
    先生の言っていることと話が噛み合っていません。

    先生の方では、「聖霊の視点から見るなら、怒りを正当化できるような
    例外はない。怒りを正当化するなら、理由は何であれ、その時、自我の
    視点から見ている」というのが答えなのですが、質問者は、その答えを
    そのまま受け入れられていない様子です。だから、T-21.II.2:3の「責任」
    の概念を持ち出してきています。おそらく以上の発言は、後の3分25秒
    あたりからの質問者の発言「あなたが自分を防衛しているときの相手は、
    あなたが自分の生活範囲内に取り込んだはずなので、自分を防衛する正当
    な理由があるはずです」というのと同じ意味で述べられていると思います。

    その後に続くケネス先生の回答
    「私がとるべき責任はあなたが私を攻撃することにはなく
    私がそれを私個人への攻撃と受け取ることにあります。」

    この解説を分かり易くご説明戴く事は可能でしょうか?
    そして、また、私とはまず誰のことを指して言っているのか?
    あなたとは誰の事を指して説明してくださっているのでしょうか?

    >>
    ここの字幕の訳し方は、時間制限と文字数制限のせいで、わかりにくい
    訳になっていて申し訳ありません。まず、「私」と「あなた」という言葉は
    単に、「自分」と「相手(他人)」という意味で、この文は具体的な状況に
    ついてではなく、一般論として述べられています。

    その意味は、次の通りです:
    もし他人が自分を攻撃したなら、その他人が自分を攻撃したという事態
    そのものを自分が引き起こしたというふうに考えて、自分が責任をとる
    べきだということではない。
    けれども、その攻撃によって、自分が傷ついたり、怒ったりするなら、
    それは自分がそれによって傷ついたり怒ったりすべき理由をそこに見た
    という意味で、そのように解釈したということになる。その解釈については、
    自分に責任がある。

    その後に続く質問者の方の言葉
    「でも、自分で責任を持たなければならないはずです。
    そうでなければ、それはいつまでも変りませんから。」
    これは、一体何を受け入れられず何を主張されているのでしょうか?

    >>
    これも、上記の3分25秒あたりからの発言に要約される意図に
    つながるものと思われます。

    もし、T-21.II.2:3の「責任」ということについて、この人が正しく理解して
    いたなら、「自分の怒りは、自分の解釈によるものだ」ということを
    受け入れられて、ケネス先生の言っていることも受け入れられるはず
    なのですが、この質問者の中では、両者がつながっていないので、納得
    できていない、ということの様です。

    ケネス先生:
    「でも、私が受け入れるべき責任とは
    あなたが行ったことについてではありません。」
    このケネス先生の回答の解説をお願いできるでしょうか?

    >>
    これも、すでに述べた通り、「相手が自分に何か攻撃的なことを
    したとき、そのような状況自体を引き起こしたという責任が
    自分にあると考えなくてよい」ということです。でも、もし、
    「だから、この人は悪人だ」と解釈したなら、そう解釈したことの
    責任は自分にある、ということでもあります。

    ご質問への答えは、以上です。

    加藤