7月 282014
 
【質問】

テキストT-11.VII.2:1や、T-4.IV.8:3にでてくる「愛ある想念」、「愛のこもった考え」という言葉で、少しつまづいております。

『奇跡講座』の教えの世界での「愛」とは、通常、普段私たちがこの世的な意味で使う愛の概念とは異なっていると思います。私達がこの世で結ぶ関係は「特別な関係」であり、「特別な愛の関係」も「特別な憎悪の関係」も本質的には一緒である、と述べられていると思います。

では、ふつう私たちが「愛」と言われて思い浮かべるもの、たとえば、異性を慕う心や、親が子に、子が親に示す愛情、あるいは電車でお年寄りに席を譲るなどの小さな親切、これらはコースでいう「愛ある想念」ではないのでしょうか?

マニュアルのM-3.2では、エレベーターの中で明らかに赤の他人である二人が出会い、微笑みかけることで、その一瞬で十分だ、救済は訪れた、とあります。

また、たとえば、私が普段仕事で、困っている同僚を助けたとします。でも思うに、「この前お世話になったから助けてあげよう」とか「今後私が困ったときに助けてもらえるかもしれないから」とかそういう取引目的?という邪念が入ってしまうこともあるのです。こういう場合は本当の愛ではないのではないか、と思ったりします。

結局、どのようなものがコースで言うところの「愛ある想念」「愛のこもった考え」なのでしょうか?

つまり、結局ふだん私達が「愛ある想念」と思っているものの多くがコース的には本当の愛ではない、ということになってしまうのではないか、なんて思ったりしてしまうのです。

この点、もしよろしければご教授願えないでしょうか。

(by Nさん、九州)

 

【回答】

「愛」については、厳密には、ご指摘の通り、この世界の愛(自我の愛)は「特別な愛」です。『奇跡講座』が定義する「真の愛」は、この物理的世界のレベルには存在していません。

けれども、この世でも、神の愛の「反映」であれば、経験することができます。

そして、この世における神の愛の反映は、「分離した心」の中で神の記憶を保っている聖霊(=「正しい心の状態」)から延長されるものです。

ですから、私たちが心の中で、真に聖霊を選んでいるときに私たちが抱く想念や考えが、「愛ある想念」であるということになります。

ご質問の中の、「異性を慕う心や、親が子に、子が親に示す愛情、電車でお年寄りに席を譲るなどの小さな親切」などは、「愛ある想念」からのものなのかどうか、ということに関しては、一概にはどちらとも言えません。この例の中のどれもが、自我の想念と聖霊の想念のどちらに基づいていることもあり得るからです。鍵となるのは、これらの想いを抱いたり行動化したりする人が、心の中で自我を選んでいるか聖霊を選んでいるか、ということです。

このコースの実践という観点から言えば、私たちの言動の大部分が自我に基づいている状態から始まりますから、私たちの経験する愛は、初めのうちはほとんど全部「特別な愛」です。けれども、おそらく私たちはそのほとんどを真の愛だと思っています。

ですから、コースを学んでいくと、自分では愛だとか善意だとか思ってきたものが、実は「特別な愛」だったということがわかってきます。そしてそれが心の平安を妨げていたものだとわかるようになるので、徐々に、自我を選択する代わりに聖霊を選択したいと思うようになってきます。

それから、「困っている同僚を助けるときに、利己的な下心がある」というような場合は、もちろん、典型的な「特別な関係」の取引の例です。そして、それが「特別な愛」だと敏感に気づくようになっていくことは、このコースの学びにおいては、進歩であると言えます。

最後に、「マニュアル」で述べられているエレベーターで出会う二人についてですが、これは、「愛ある想念」や「特別な愛」とは少し違うことについて述べています。

この文脈は、救済がもたらされる「枠組み」(=機会)としての「互いに教えあい学びあう二人」について語っていますが、どのような二人でも、別々の利害を忘れる(つまり、自分たちの利害は共有されていると認識する)ことができれば、それが救済につながるものであり、それは、どのような出会いからでも生じ得る、という意味のことを述べています。