5月 072016
 

『奇跡講座』は、「奇跡」について教えるコースであって、「啓示」の体験を目標としているコースではありません。この区別を理解しておくことは重要です。

最近、以下のような質問をいただきました:

「神」、「聖霊」、「実相」等は、経験出来ない事柄だと思います。「経験」出来なければ、我々は「認知」する事は不可能に思えるのです。確かに、「講座」の言わんとするところは解りますが、「奇跡講座」の大半が「心」を中心に述べられています。が、もし、「経験」出来なければ、「認知」、「承諾」は不可能に思えるのですが、如何なものでしょうか。

『奇跡講座』は、神を直接的に体験することが不可能だとは言っていません。テキストの第一章のセクションⅡの中には、「啓示」についての言及がありますし、T-1.VII.5:11 では、「ときには啓示が到達地点を明かしてくれることもある・・・」とも述べられている通りです。

けれども、この物理的世界に存在している間は、神の直接的な体験は一時的なものです。さらに、それは自分で計画したり努力したりした結果起こることではなく、突然、その体験が一方的にやってくるという形で起こるのが普通です。もちろん、何らかの霊的修業が、それが起こるのを促進するということはあると思いますが、まったくそういうことに関心のない人が突然、光に包まれる体験をするというようなことも、世の中にはあります。

ですから、そうした体験をすることだけを目標とする学びは、あまり実用的なものとはなりません。

また、「啓示の体験をした」と述べている人々が、それと同じ体験へと他の人々を確実に導けるかというと、そうではない場合がほとんどです。

啓示は甚だ個人的なものであり、意味のある形に表現しなおすことはできない。それゆえに、それを言葉で描写しようとしても不可能である。啓示は経験のみをもたらす。(T-1.II.2:1-3)

だからこそ、『奇跡講座』は、「啓示」ではなく「奇跡」(赦し)について学ぶカリキュラムなのです。

心について説明し、心の中の何が、神との一致状態に戻ることを妨げているのかを明らかにし、その妨げを除去して心を癒していくことによって、少しずつ、神へと戻っていく道を歩いていくことができる、という教えです。

さらに、そのようにして心が癒されていくのを体験することはできます。心が癒されていくことにより、心の平安が増していきます。この世界の中に存在しながらも、周囲の状況に左右されない「心の平安」が深まっていきます。それは確実に、「認知」できる体験であり、その平安を得ることこそが、このコースを学ぶ動機であるべきなのです。

このコースを学ぶための動機となるのは、智識ではない。平安である。
これが智識に至るための必要条件である。(T-8.I.1:1-3)

(注: 智識 = 実相 = 天国 = 神 )

ということは、心の中の「神を覚えている側面」としての「聖霊」に触れることにより癒される体験を、私たちは経験できる、ということです。

そして、この道は長い道のりだとはいえ、その最終地点では、本当に、神とひとつである状態の自覚を回復することができるということが約束されています。その道の途中で、「啓示」を通して、その最終地点を垣間見る経験をする人々もいます。

けれども、冒頭の引用文はさらに次のように続いています。

ときには啓示が到達地点を明かしてくれることもあるが、そこに到達するには手段が必要である。(T-1.VII.5:11)

「手段」は、様々な教えという形で世界中にたくさん存在しています。その「手段」の一つが、『奇跡講座』なのです

 

*以下の関連資料も参照してください:

― Q&A#103 「啓示について」
― 「奇跡講座の学び方」の中の「啓示について」