2月 082018
 
【質問】

『奇跡講座』の学習者や教師から、「聖霊に尋ねる」ということをよく耳にします。

何かに誘われたり、何かをやるかどうかを決める時に、「聖霊に尋ね」、それで答えを出す(やるかやらないかを決める)、という形で語られているのを聞くことがよくあります。

でも、私が疑問に思うのは、「聖霊に何もかもそうやってガイダンスをもらって決断するということが、コースの教えなのか?」ということです。

以前、ワプニック博士は「何をするべきか、話すべきかに聖霊に尋ねるけれども、それについての答えが返ってくるまでじっと待ち続けて、相手を待たせることはしない」というように冗談交じりに話されていたと思いますし、FACIMビデオ「V#1: 二つの声の聞き分け方」では「このコースの焦点は実に明確であって、具体的な質問に、具体的な答えをもらうことではありません、わたしたちに必要なのは、具体的な”愛の体験”です」と話されています。

この「聖霊に聞く、尋ねる」ということについて、具体的にはどういうことを指しているのか、もう少し解説していただけないでしょうか。

『奇跡講座』にはこの世での行いをどのようにしなさい、ということは書かれていませんし、聖霊もそういう形で世界に介入することはないと理解しています。(わたしたちが聖霊の導きを、この世での行動への示唆として受けるということはあるだろうけれど。)

ですからわたしは「聖霊に聞く・尋ねる」というのは、いつも聖霊に主導してもらって、赦しの機会を捉えられるようにするとか、本当の自分を思い出したいという祈りとして聖霊に語りかけるということは行っています。

けれど現実レベルのこと、例えば、「友人にどこかへ行くのに誘われたけどどうすべきか」とか「あれをすべきか、それともすべきでないか」いうことに関する答えのようなことなどを逐一聖霊に聞いたりはしていません

その選択にまつわる葛藤があったり、動揺がある場合は、そこに赦しの機会があると見て赦します。葛藤や恐れが強すぎて、自我からの願いとわかっていながら「こうすべきでしょうか?それともああすべきでしょうか?」と尋ねることはあるのですが、結局は赦しに向かいます。

「思考の逆転」の講義の中に、「目的」という観点から見る、というお話がありました。「聖霊の目的(=赦し)」を選ぶと決めているなら、すべての状況が「赦し」のために使われる、ということでした。

それならば、聖霊の目的を選ぶと決めていれば、Aをやることにしようが、Bを選ぼうが、その先に葛藤や恐れが現れてくれば、赦していけばいいだけで、やる前に「Aを選ぶべきでしょうか。それともBでしょうか」と聖霊に聞く必要はないのではないかと思うのです。

わたしは「聖霊に尋ねる」というのは、聖霊に心を向ける訓練とか、自我と同化して主導権を握ろうとしている自分に気づくためのレッスンなのではないかと思っていますが、そのあたりのことについても留意する点やアドバイス等があれば教えていただけないでしょうか。

 

【回答】

ご質問への回答の一部として、FACIMの関連ビデオ二つに字幕をつけましたので、これらのビデオV#22とV#23も、参照してください。

V#22の方は、『奇跡講座』でいう「聖霊」とはどのような存在なのかについて、V#23の方は、「聖霊に尋ねる」とか「聖霊に助けを求める」ということはどういう意味なのかについて、基本的なことを説明しています。

さらに、ここでは、ご質問の中の、「聖霊に聞く、尋ねる」ということは「具体的にはどういうことを指しているのか」ということに焦点を合わせて、少し補足します。
 

まず、「何かをやるかやらないか」、「Aを選択すべきか、Bを選択すべきか」といった日常的な行動のレベルで、何もかも聖霊からガイダンスをもらって決断するというのがこのコースの教えなのかどうか(=そうではないのではないか)、という疑問点につきましては、まさに、おっしゃる通りです。そういったことが『奇跡講座』の「実践」なのではありません。

けれども、このコースを学ぶ多くの人々が、(特に初めのうちは)そのような学び方で学んでしまう傾向があるということは、V#23のビデオでも述べられている通りです。

そうした間違いを訂正するという目的のために、『奇跡講座』本体の出版から1年後に、小冊子「祈りの歌」が口述されたわけですが、その事実は、当時広まりつつあったその間違いを訂正することが、非常に重要だったということを示しています。

ということは、「具体的な問題の解決や具体的な質問の答えを得るために、聖霊に助けや導きを求めるということは、『奇跡講座』の教えではない」と理解することが、重要だということです。それが、正しい実践への鍵となる、とも言えます。

その観点からは、ご質問の中で述べておられるように、「聖霊に主導してもらって、赦しの機会を捉えるようにする」とか、「聖霊に心を向ける訓練や、自我と同一化して主導権を握ろうとしている自分に気づくためのレッスンとする」とか、さらには、「本当の自分を思い出したいという祈りとして聖霊に語りかける」などは、どれも、「聖霊に聞く・尋ねる」ということの正しい捉え方であると思います。

ですから、その基本的な姿勢を持ち続けていかれるとよいと思いますが、さらなるアドバイスや留意すべき点としては、赦しのプロセスとの関連において「聖霊に聞く・尋ねる」ということについて、いくつかのポイントを述べてみたいと思います。
 

『奇跡講座』の主眼は、あくまでも心を変えることですから、聖霊からの導きや助けというものも、心を変えるためのものです。つまり、求める必要があるのは、心のレベルでの助けや導きです。

あなたは心のレベル以外では導きを必要としない。(T-2.VI.3:5)

行動のレベルで「あれをすべきか、これをすべきか」という決定は、どちらに決めたとしても、同じ自我の枠内で形を変えるだけであり、その枠そのものから抜け出す選択ではありません。

自我の枠の外に出て聖霊を選ぶ選択というのは、心のレベルの選択です。

この二つのレベルの区別については、概念として理解するのはそれほど難しいわけではありませんので何となく「わかっている」と思いがちですが、実践の段階になると、両者は容易に混同されてしまいます。

たとえば、自我の枠内で「ネガティブ」から「ポジティブ」に移行しただけなのに、それだけで「自我」から「聖霊」への移行が達成されたと思ってしまうことがよくあります。

ですから、聖霊に、「この区別をよく理解できるように助けてください」とか、「この二つを混同しているときには、すぐに気づけるように助けてください」などというふうに語りかける形で、助けを求めることは、赦しのプロセスにおいて非常に役立ちます。

 

V#23のビデオの中の2分47秒くらいから、このような言葉があります。

「具体的な助けを求めるという考え方」自体が、
「聖霊に助けを求めることを通して私たちが
取り消そうとしている自我の思考体系そのもの」を、
強化している、ということになるのです。

具体的な選択肢の間でどちらを選べばいいかについて導きが欲しいと思っているとき(例えば、「パーティーに招かれたけれど、行くべきか断るべきか迷っている」というようなとき)、私たちは、どちらか一方の選択肢の方が、もう一方の選択肢よりも、何らかの形で自分にとって益になるはずだと考えています。そして、確実に益になる方を選びたいけれども自分にはわからないので、その答えを知っている存在に尋ねたいと思っています。

こういう考え方の根底には、次のような前提があります:

・「パーティーに行く」とか「行かない」ということを行う主体である「個人としての自分」が、存在している。

・ その「自分という存在」が必要としているものを与えてくれる「他者」というものが、自分の外に存在している。

こうした考え方自体がすべて、自我の思考体系の特徴です。ですから、具体的な助けを求めるなら、そのたびに自我の思考体系が健在だと再確認しているようなものなので、そういう意味で、それが強化されることになります。

一方、同じビデオの最後の方に、「真の問題を取り消すための助け」という言葉がありますが、これは、心のレベルの助けです。

さらに、「自分が誰なのかを思い出す助け」、「真の教師は誰なのかを思い出すための助け」、「自分を真に救う思考体系を思い出す助け」など・・、これらもみな心のレベルのことです。

このように、肉体レベル(行動のレベル)と心のレベルを混同せずに、心のレベルで選択しなおすための助けや導きを求めることが、『奇跡講座』で言う「聖霊」から「助けを求める」ということなのです。

 

以上のような「心のレベルに戻るための助け」に加えて、もう一つ、私たちが絶対に必要としているのが、「心の中の闇の部分を直視するための助け」です。JQA#24 でも述べましたが、もし自我の視点を通して罪悪感を見続けているなら、さらなる闇の奥にはまり込んでいくだけだからです。

ですから、心の中の罪悪感を、「一緒に見てください」、「正しい見方で見られるように助けてください」と聖霊に頼むことを忘れてはなりません。

私はあなたにランプを与え、あなたと共に行く。あなたはひとりで
この旅に出るのではない。(T-11.in.4:5-6)

このように、ランプを持って、一緒に闇の中を歩いていってくれる存在のイメージを思い描くと助けになります。

そして、最終的には、自分の闇(=罪悪感)を光のもとまで運んでいったとき、その闇には実体がないことがわかるようになります。

その背後に光を見るまでは、罪悪は薄くて透けて見える
ほどのものだとわからない。そして光にかざせば、それ
がすぐにも破れそうなベールだということが、あなたにも
わかるようになる。(T-18.IX.5:3-4)

 

また、「聖霊の声を聞く」ということについては、もし実際に声が聞こえたり、あるいは、声でなくても非常に明確に具体的なメッセージを受け取ったりすることがあるという人々は、注意したほうがいいことがあります。それは、「明確な指示やメッセージが聞こえるからといって、それが必ずしも、本当に聖霊からの導きだとは限らない」という点です。

むしろ、自分では「聖霊の声だ」と確信していたものが、実は自我の声だったということは大いにありえることなのです。

そして、この区別がわかるようになることも、赦しの実践のためには重要です。

これは、自分と聖霊との関係が〔特別な関係〕となっていないかどうかを見分ける識別力です。そして、このことをよりよく理解するためにも、真の聖霊に頼ろうという意図をもつことが大切です。

 

このように、『奇跡講座』の「実践」というのは、心の中でやることがたくさんあります。赦しというのは、主に心の中の作業なのです。

この世界の普通の学びにおいては、学習によって獲得した知識や知的な理解を使って、それを今度は行動のレベルで表現していくことを「実践」と呼びますが、『奇跡講座』の「実践」は、心の中で起こります。「実践」の場は、心のレベルです。

そういう意味でも、このコースはあくまでも独習のコースなのです。自分の微妙な心の動きを自覚できるのは自分だけだからです。

勉強会などに参加することは、それなりに役に立つとは思いますが、そうした場に参加しているだけで「正しく学べている」と安心すべきではありません。むしろ、人が集まるところには、常に、他者との関係の中に赦しの機会があると認識しつつ、勉強会であれ、毎日の生活の中であれ、どこにでもその機会を捉えて、自分の心の中を見て、心を癒していくことが、『奇跡講座』の実践であると言えます。

その目的のために、私たちは、聖霊からの助けを必要としているのです。