8月 102014
 

【質問】

「謙遜とは自我が学ぶべきレッスンであり・・」、また、「彼らの自我が謙虚であり・・」(T-4.I.12:2, 4)とありますが、「自我が謙虚であり」という言葉をどう理解すればよいのでしょうか。また、自我はあくまで「信念」であるし、「考え」なので、「考え」である「自我」が「学ぶ」ということなどあるのだろうか・・と考えてしまい、どういうふうに捉えたらいいのかが入ってきません。どの様に理解していくことが賢明でしょうか?

(MKさん)

【回答】

『奇跡講座』には理論としての一貫性はあるのですが、細かい言葉遣いのレベルでは、厳密な一貫性があるとは言えない面があります。それは、抽象的な ことについて述べているので喩えが使われることが多く、時には、文脈によって同じ言葉が違ったニュアンスで用いられたりすることもあり、科学的な文献など のような厳密さは保てないからです。それでも、理論の全体が頭に入ってくると、そうした矛盾のように見えるところも、全体に照らして矛盾なく理解できるようになってきます。

ですから、Kさんが疑問に思っておられるところは、確かに、他のほとんどの箇所に出てくる「自我」とは少し違った意味で使われていますが、それで理論が破綻するわけではなく、少し拡大解釈すればいいのです。

まず、このページの12:4の文を見ると、「柔和な者たちが地を受けつぐというのは、彼らの自我が謙虚であり・・・」となっており、「柔和な者たちが 地を受けつぐ」というところは聖書からの引用です。つまり、昔から言われてきた周知の概念に対して、このコース的な考え方を当てはめて説明しています。ですから、ここではコースの形而上学的な理論の中の厳密な「自我」の定義を当てはめるよりは、「自我と同一化して生きている人間としての私達」というような意味で読んだ方が意味が通ります。「彼らの自我が謙虚である」、つまり「謙虚な自我を持っている人」というのは、普通の言葉で言えば、「エゴが強くない人」、「利己的でない人」といった意味に解釈して問題ありません。

そして、おっしゃる通り、このコースでは一つの信念体系の象徴として「自我」という言葉が使われているということから考えると、「自我が学ぶ」という概念は、厳密には、確かに変ですね。

でも、時々このような表現がでてきます。たとえば、テキスト第四章、I、2:13などにも、「それでも自我は学ぶことができる」というフレーズがあります。

こういう場合、学ぶことを行う自我というのは、「自我(の思考体系)と同一化している私たち」であると考えて差し支えありません。

そして、その「私たち」というのは、上記のように、「この世界に生きている私たち」と解釈しても、多くの場合は意味が通るように見えますが(そして、最初のうちは誰でもそのつもりでコース全体を読んで いくと思いますが)、厳密には、普通の私たちの顕在意識では自覚されていないレベルの心の中で「自我を選んでいる主体」のことです。