10月 232014
 
【質問】

T-20.VII.7:4の「~それぞれの手段のために採用される~」というところの
意味が、よくわかりません。

もしかして、

「~それぞれの目的のために採用される~」の誤植ではないでしょうか?

間違っていたらすみません。

S.T.

 

【回答】

これは誤植ではなく、今のままで問題ありません。

この文7:4の「それぞれが目的の選択であり、それぞれの手段のために採用されるもの」
というところの意味は、「それぞれの手段が、それ自体で目的の選択ともなっており、
その目的というのは、それぞれの手段のために採用されている目的である」ということ
です。

このあたりは原文で読んでも代名詞の使用が多くてわかりにくいところですので、
FIP/FACIMの翻訳方針に従って、訳文も原文以上にわかりやすい訳にはしていません。

ですから、この機会に、この段落全体を、若干の説明も加えながら、一文ずつ、
もう少しわかりやすく言い換えてみますので参考にしてください。

太字の文がテキストの訳文で、( )内が書き換えた文です。

7:1 このむなしい想像と心眼{ヴィジョン}との間には明らかに違いがある。

(前段落で述べられているような、兄弟を肉体として見るという見方は、
聖霊による知覚である心眼{ヴィジョン}と比べると、明らかに違っている。)

7:2  その相違はそれら自体の中にあるのではなく、それらの目的の中にある。

(両者の相違は、一方は肉体を見て他方は肉体を見ないということ自体に
あるのではなく、それぞれの見方の持つ目的が違うということの中にある。)

7:3  どちらも手段であるにすぎず、いずれも、それらを採用する
目的にとっては、適切な手段である。

(肉体を見るという自我の見方も、肉体を見ないという聖霊の見方も、どちらも
単なる手段にすぎない。自我による見方は、自我が採用している目的にとって
適切な手段であり、聖霊による見方は、聖霊が採用している目的にとって適切な
手段である。)

7:4  どちらの手段も他方の目的に仕えることはできない。なぜなら、
それぞれが目的の選択であり、それぞれの手段のために採用されるものだから
である。

(自我の見方という手段を、聖霊の目的のために使うことはできないし、聖霊の
見方という手段を、自我の目的のために使うことはできない。なぜなら、どちらの
手段も、それ自体で、目的の選択となっており、その目的とは、それぞれの手段の
ために採用されている目的だからである。)

7:5 どちらも意図する目的無しでは無意味であり、その意図から切り離した
単独のものとして価値を認めることはできない。

(どちらの手段も、目的が無ければ意味はないし、目的から切り離された手段が、
価値あるものとして大切にされることもない。つまり、兄弟を肉体として見ると
いうことは、「罪を見る」という目的が無ければ無意味であり、価値ある
手段と見なされることはない。また、兄弟を肉体として見ないということは、
「聖性」という目的がなければ無意味であり、価値ある手段と見なされる
ことはない。)

7:6 ゴールの価値が認められているからこそ、手段が実在するかに
見えるのである。

(まず先に、「追求する価値があるもの」としてゴールが大切にされているからこそ、
その達成のための手段も、実在するように見えている。ひいては、罪を見るという
ゴールがすでにあるからこそ、肉体が見えている。)

7:7 そしてゴールが罪でない限り、裁きには何の価値もない。

(他人を裁くことに何らかの価値があると思えるなら、それは、ゴールとして
「罪」が選ばれているからに他ならない。)

〔注: 「肉体を見ない」というのは、「罪という目的を通して相手を
見ることをしない」という意味であり、視覚的に、一個の人間としての
相手が目の前に見えなくなるということではありません。〕