質問153: 葛藤の目的
私はこれまで、葛藤を回避することを目的として、『奇跡講座』をいろいろな形で誤用してしまったと思います。そして、その結果、ある人々が私に対して支配力をもっているということを、私がその人たちに実証することになってしまいました。
ですから、説明していただきたいのですが・・・
自分が他人に踏みつけられる「ドアマット」のような存在になることを甘受するのと、『奇跡講座』が教えようとしていることとは、どう違うのでしょうか?
臆せず自分を主張する必要がある状況、すなわち、神の意志の通りに、自分は他人と対等だということを認める必要のある状況への対応について、『奇跡講座』は何を教えようとしているのでしょうか?
回答
「葛藤を回避するために『奇跡講座』を誤用してしまう」というのは、このコースを学ぶ人々によく見られる間違いの一つです。それは否認の表れ方の一つの形であり、このコースの非常に重要なゴールに真っ向から対立するものです。そのゴールとは、私たちが自分の生活の中の様々な葛藤に目を向けることができるように教える、ということであり、それこそが、『奇跡講座』を霊性への道としてはユニークなものにしている側面の一つなのです。
『奇跡講座』が私たちに教えているのは、「葛藤を正視することにより、私たちは無意識の中に隠れている信念の数々を認識できるようになる」ということです。そうした信念には、自分自身に関するものも他者に関するものも含まれますが、そのすべてが、「分離は実際に起こった」という一つの信念から生じています。私たちが経験する諸々の葛藤は、概して、偏見や感情や思考で溢れかえっていますが、それらは、心の奥にある葛藤を反映しており、「私たちのアイデンティティは肉体である」という自我の虚言を信じる選択をしたことによって生じたものです。その選択により、私たちは、罪のない神の子という自分の真のアイデンティティを否定してしまいました。
私たちが心の中のこの葛藤に気づかない限り、癒しのためにそれを聖霊のもとに運ぶことはできません。それを可能にするという目的が、『奇跡講座』においては、私たちの生活の中の葛藤に対して付与されている目的なのです。それが、真に葛藤を解決する唯一の方法です。
『奇跡講座』は、「葛藤の真の原因は、癒されていない心である」と、私たちに教えているわけですから、あながたが尋ねておられるような、形態のレベルでの葛藤に対処する方法については、何も語っていません。私たちに求められていることは、あらゆる状況で浮上してくる考えや信念や感情のすべてについて認識し、それらが、「自我の思考体系と同一化する」という心の中での選択を反映しているということを理解し、『奇跡講座』の教えの観点から、それらについて疑問を投げかけようとする意欲をもつことです。
形態のレベルにおいて何かをするということは、私たちには求められていません。霊性が高い人のように装ったり、『奇跡講座』の形而上学的原理に一致していると見えるような行動(不当な扱いを受けている時に沈黙を守る、など)をとろうとしたりすることは、まだ自分が自我の思考体系と一体感をもっている時点では、非生産的であり、自分が「ドアマット」のように踏みにじられていると感じることになるだけです。そのようなことは、もちろん、イエスが私たちに体験させるように導いている経験ではありません。さらには、もしあなたが被害者だというのならば、加害者が存在することになりますから、それにより分離が強化されることになってしまいます。
『奇跡講座』は、私たちは皆、「対等」であるだけでなく、「ひとつのもの」である、と教えています。私たちにそれがわかるようになるのは、「自分は他者から離れていて、異なっている」という知覚をもたらしている形態を、すべて赦したときです。それまでは、私たちは赦しの練習を続けます。そして、あなたが自分を主張しながら、このコースに忠実でいるということは、可能です。なぜなら、それは、あなたが物理的、情緒的、心理的に自分を大切にして気遣うために行う他の様々なことと、何ら違いはないからです。
相手を攻撃することなく自分を主張するということは、あなたの必要が尊重されるべきものであると同時に、他の人々も同じく尊重されるべきだということを認める方法の一つです。それにより、私たちに別々の利害はないという信念が強化されます。
自分が肉体だと信じている間は、私たちは、普通の行動基準に沿って、他者と関わり合います。ということは、私たちは自分の感情や自分が知覚している必要のうち、どれ一つとして否定しないということです。それらを否定することは、学ぶ機会や赦す機会を私たちから奪うことになるだけだからです。
『奇跡講座』は、テキストのごく初めの方で次のように警告しています。
「肉体は単に、この物理的世界におけるあなたの経験の一部であるにすぎない。・・・しかし、この世界においてはその存在を否定することはほとんど不可能である。そうする者たちは、否定の中でもとりわけ無価値な形の否定に携わっていることになる。」(T-2.IV.3:8,8,11)
[2026年5月31日]