質問154: キリスト教の「原罪」と、『奇跡講座』の「罪悪感」との違いは?
私はカトリック教徒として育てられ、「原罪」を信じてきました。ですから、人間として、自分には「罪があり」、「欠陥がある」ということは、すでに信じています。さらに、私は自己肯定感が低く、自分は恥ずべきものだと感じていて、人々に好かれたいとも思っていることを自覚しています。こうした感情や信念は、『奇跡講座』が説明している「罪悪感」、つまり、「神から分離するという自我の選択から生じた罪悪感」と、ほぼ同じものと考えていいでしょうか?
私の理解する「罪」の概念に当てはめて考えようとすると、『奇跡講座』の形而上学的理論は、私にはよく理解できません。これら二つの形の罪悪感は「同じもの」なのかどうか、知りたいと思っています。自分で隠そうとしていると言われている罪悪感の、具体的な形を識別するということが私にできるのかどうか、自信がもてません。「顕在意識の自分」の中では、私は自分に罪があると感じています。実際、私は自分のミスについて、必要以上に責任を感じる傾向さえあります。
もし二つの形の罪悪感が同じものであるのなら、たぶん、その罪悪感の奥に隠されていると『奇跡講座』が教えている愛と赦しに、私も触れることができるかもしれないと思うのです。それを助けていただけませんか?
回答
『奇跡講座』が述べている「罪悪感」というのは、存在論的な罪悪感ですから、それを「原罪」と同じものと見ようとするよりも、「原罪というキリスト教の教義を訂正するもの」と述べる方が、より正確な説明の仕方となります。また、 『奇跡講座』は、「原罪」という教義の起源は自我の思考体系にある、ということも述べています。聖書の中のアダムとイブの物語は、エデンの園の中で人類の始祖たちが犯した原罪について語っていますが、それは『奇跡講座』の言葉で言えば「罪・罪悪感・恐れという自我の神話」を、象徴的に描いたものと考えることができます。そしてキリスト教と『奇跡講座』の主な相違点の一つは、キリスト教は「罪は実在する」と主張している、というところなのです。このアダムとイブの物語を、キリスト教が文字通りの事実と見ているのか、象徴的なものと見ているのかに係わらず、キリスト教は、「罪は実際に起こったことであり、私たちと神との間の関係に、深刻でネガティブな影響をもたらした」と説いています。
一方、『奇跡講座』は、罪と分離(罪を犯したことによる神からの分離)を信じるという間違った信念を、今この瞬間においても受け入れるという選択を、私たちは心の中で繰り返しているのだと教えています。
そして、この問題の唯一の解決法は、自分の信じていることについて、自分の心を変えることだけだと教えています。(この方法については後半で詳く述べます)
ですから、キリスト教の枠内では、創造主に対する人類の罪深い行為の結果として、有罪性というものは確かに実在するということになっています。原罪というものの本質につては、神学の様々な流派の学会などで、論議されたり、ディベートされたりしていますが、その実在性については、殆ど疑問視されていません。けれども、『奇跡講座』 においては、有罪性は作り話であり、単に、「罪は実在する」ということを私たちに証明しようとする自我の防衛の一部にすぎません。何も起こらなかったのですから、神は怒っていません。だから、神が宥められる必要などありません。さらには、世界、および、その世界の中の肉体としての私たちの経験も、神が創造したものではなく、 「神への攻撃と分離は本当に起こった」ということを、私たちが自分自身に確信させるための、熱に浮かされたような妄想の産物にすぎません。最初の人間たちアダムとイブによる過ちや、私たちが自分を責めるために使う過失や悪事のどれもが、単に、私たちが世界の中ではなく心の中で自ら選んだ決断について無自覚でいられるようにするための、自我の煙幕の一部なのです。
『奇跡講座』によれば、自我が作り出した「罪・罪悪感・恐れ」という神話を私たちが心の中で受け入れたことにより、その結果として、他のすべてのことが生じました。すなわち、原罪という作り話や教義、別々の肉体に分離している存在たちがいる世界、それぞれの存在がそれぞれに異なる考えを抱き、そのどれもが神に対抗する選択をしているように見える世界、そうした選択のすべての結果として生じるように見えている罪悪感 - こうしたものが作り出されました。
ですから、実用的なレベルの話としては、あなたが描写されたような、罪悪感から生じるありとあらゆる感情に触れているとき、あなたは「自分を〈分離した存在〉として見る」という自分自身の選択の〈結果〉を経験しているのです。
でも、その「自分自身の選択」という〈原因〉は、あなたの心の奥深くに隠されているものであって、今あなたが「自分」だと思っている存在とは何の関係もありません。そして、今あなたが「自分」だと思っている存在というのは、心の中にある〈原因〉からもたらされた〈結果〉にすぎないのです。
繰り返しますが、その「自分」とは、神が創造したものではなく、私たちの心による誤創造にすぎません。それは、私たちの心の中における〈分離を選ぶ決断〉という問題の核心から、私たちの注意を逸らすためのものです。そうは言っても、世界の中の存在としての自分自身との関係において私たちが経験する罪悪感の気持ちは、もし私たちがその感情の意味や原因について、自分の勝手な解釈を貼り付けようとしなければ、私たちを心の中の選択の自覚へと連れ戻すために使うことができます。
罪悪感と罪が幻想だというだけでなく、私たちが「自分」だと信じている存在も、すべて幻想の一部です。私たちにとって、罪悪感も罪も実在していないということを受け入れることは、決して容易なことではありません。なぜなら、それは、自分自身も実在していないということを受け入れる、ということだからです。
私たちは自分にとって実在すると思い込んでしまった罪悪感を、手放すことが必要なのですが、だからこそ、このコースの赦しのプロセスを実践するには、自分の信じている思考体系の外からの助け - イエスまたは聖霊 - が必要なのです。私たちが深いレベルで真に求めているのは愛なのですが、イエスまたは聖霊という助けは、その愛を、私たちにわかるような形で映し出してくれるものです。ですから、私たちがその助けを受け入れてもいいという意欲をもったとき、私たちはすでに、罪と罪悪感を信じる信念の背後に隠されている愛と赦しに繋がったことになります。そのように繋がることによって、「罪と罪悪感は実在しないので、それについてしなければならないことは何もない」ということが、私たちにもわかるようになるのです。
[2026年7月3日]