質問155: 「誰も一人で天国に入ることはできない」ということの意味は?
私の解釈が間違っているのかもしれないのですが、『奇跡講座』は、「誰も、一人で天国に入ることはできない」と言っているように私には思えます。これは、自分が分離していると思っている魂の一人ひとりが、〈贖罪〉を受け入れた状態で生きるということをするまでは、他の誰も天国へ行くことができないという意味なのでしょうか?
また、肉体を去るときに、まだ〈贖罪〉を受け入れていなかった魂たちは、どうなるのでしょうか?
回答
確かに『奇跡講座』は、「誰もひとりで天国に入ることはできない」 (WpI.134.17:7)と述べています。しかし、この言葉は、「自分が分離していると思っている魂のすべてが、〈贖罪〉を受け入れた状態で生きるということをするまでは、他の誰も天国へ行くことができない」という意味ではありません。このコースが訂正しようとしているのは、私たちが抱いている「自分は分離していて、自律的な個人である」という間違った考え方です。そうした考え方は、例えば、「自分が他者を咎めても、その裁きの気持ちが自分自身に影響することはない」というような形で表れることもあります。
ですから、上記の引用箇所のすぐ前の文で、
何をするときも、次のことを思い出そう。
誰もひとりで十字架にかかることはない。(W-pI.134.17:6-7)
・・・とも言われているのです。
さらに、類似した文言としては、以下のようなものもあります。
兄弟よ、あなたは自分の兄弟を赦す必要がある。なぜなら、あなたは狂気であれ、天国であれ、それを共有するからである。そして、あなたと兄弟は信を抱いて一緒に目を上げるか、さもなければまったく目を上げないかのどちらかである。(T-19.IV-D.12:7-8)
この教えの肝心な点は、私たちは〈一なる神の子〉としてひとつに繋がっているということです。ですから、私たちは、以下のように考えるときはいつでも、間違っているのです。
ー 私は天国の門をくぐるのにふさわしい存在だが、あの人(またはあのグループの人たち)は、ふさわしくないし、今後もふさわしくなることは絶対にない。
または、
-- あの人は天国にふさわしいが、私はそうではない。
イエスは、私たちの心を、〈一なる神の子〉すなわち〈キリスト〉としての本来の状態に戻すために、私たちを助けています。彼は、私たちの使う言葉を使っていますが、それは、私たちが普通の知覚の仕方を超えていけるように助けるためです。そして私たちの言葉は常に、分離、分裂、個別性、そして直線的な時間に根ざしています。ところが、そのプロセス自体は直線的なものではありません。そのプロセスの中では、「待つ」ということは無いのです。時間の中にいる私たちの視点からは、私たちはそうしたことを思い浮かべますが、そのプロセスは、私たちの時間的枠組み全体の外にあるものですから、それは、私たちが完全に理解できるようなものではありません。ここにあるのは幻想のみであり、そこでは、癒されていない多くの心が存在するように見えているだけなのです。でも、本当は、癒しが必要な心は一つしかなく、それは、あなたの心です。あなたがそのことに焦点を合わせつつこのコースの実践を続けるなら、そのレッスンを学び、その教えを自分の理解に取り込むことができるようになります。
それから最後のご質問についてですが、〈贖罪〉を受け入れるためには、肉体を去る必要はありません。私たちが肉体を去るときには、肉体はただ、正しく知覚されるようになるだけです。すなわち、それは、「心の中の源を一度も離れたことのない想念にすぎない」と知覚される、ということです。イエスは自分が肉体ではないということを知っていました。それゆえに、彼は苦しみませんでした。彼の肉体に対して、いろいろなことが起こりましたが、それらは本当の彼自身に対して起こったのではありません。だから、彼は私たちに彼を模範とするようにと勧めています。彼は自分を犠牲者とは知覚しませんでした。彼の心は癒されていました。レッスン226は、以上のことを少し違った角度から説明していますが、考え方としては同じことです:
もし私がそう選ぶなら、この世界を完全に立ち去ることができる。これを可能にするのは死ではなく、世界の目的について心を変えることである。もし私が、今見ている通りに、世界を価値あるものと信じるなら、世界は私にとって価値あるものであり続ける。しかし、もし世界を見ながら、その中に価値を見ず、自分のものにしておきたいものや、ゴールとして追求したいものを何一つ見なければ、世界が私から去っていく。それは、私が真理に入れ替わる幻想を求めなかったからである。 (W-pII.226.1)
[2026年8月4日]