質問156: 依存症にまつわる罪悪感
私は、自分が誰かを攻撃したなら、自分自身が罪悪感を感じるということを知っていますし、また、もし自分が誰かに攻撃されたなら、聖霊に助けを求めるべきだということもわかっています。
このことは、例えば依存症のような、自分が罪悪感を感じている自分の行動についても、同じように当てはまるのでしょうか?
もしその行動を続けるなら、私は必ず罪悪感を感じるとわかっています。 でも、もしその行動自体をやめたとしても、その時点では罪悪感を感じずにいられるかもしれないとは言え、罪悪感の問題を真に解決したことにはならないと思います。
この状況に対処する最善の方法はどのようなものでしょうか? 私がここで話している具体的な問題というのは、食べ過ぎること(過食)です。
回答
はい、おっしゃる通りです。あなたが誰かを攻撃しているときも、誰かに攻撃されたと感じているときも、さらには、依存症の場合のように、自分自身を自分で攻撃しているときでも、唯一の適切な反応は、聖霊に助けを求めることです。依存症が攻撃である理由は、それが、「私は不完全なので、私自身の外に、私の完全性を求めなければならない」と、何度も繰り返して述べているのと同じことだからです。それは、自分が神の子キリストであって、永遠に源から離れないものであるということ (T-29.VII.2-4,6)を、繰り返し否定しているということになるからです。
いかなる形で表現されていようと、すべての攻撃は、私たちの心の中に隠蔽されている罪悪感の投影に他なりません。それは自我が私たちに感じさせようとしている罪悪感であるわけですが、自我の主張によれば、それは、私たちが神の子キリストとしての実相を否定したとき、すなわち神から分離した瞬間に、神を攻撃したという理由ゆえに、私たちが担わなければならないものだということになっています。(ただし、そうした「神への攻撃」自体も、自我の作り話です。)
そうして私たちは、自分の罪悪感が実在するのものだと自分自身に確信させてしまったのですが、その一方で、そのことに対する責任は回避しようとしてきました。だから、私たちはその罪悪感を心の外へと投影しようとします。それが心の中ではなく、自分自身や他者の肉体レベルに存在しているように見せかけるためです。
そして、私たちは心のこの力動を隠し続けて、自分にも気づけないようにしておくことで、罪悪感が存続できるようにしています。しかし、イエスまたは聖霊に助けを求める時、私たちは実際に、自分の感情に対する責任(非難ではなく!)を受け入れてもいいという意欲を示しているのです。つまり、もはや外部の状況を問題と捉えるのではなく、心の中の罪悪感を示す指標と捉えるのです。「その状況が無ければ、心の中で意識されないままになっていたであろう罪悪感へと、自分の意識を向けさせてくれるもの」と見るのです。
ですから、おっしゃる通り、「過食」のような行動そのものを変えたりコントロールしたりすることに焦点を合わせても、真の問題に対処することにはなりません。なぜなら、それは、罪悪感の外的な表れ方を変えようとしているだけだからです。つまり、原因である罪悪感そのものに対処せずに、その結果を修正しようとしているに過ぎない、ということです。そうすると、原因は検証されないままとなり、私たちは罪悪感が実在すると信じ続けることになります。そして、本当は幻想でしかないとはいえ耐えがたい罪悪感を、他の外的形態へと投影してしまいます。その形態が、また別の形の依存症となることがあるわけです。
『奇跡講座』の最初の方 (T-2.VI.5)で、心に焦点を合わせることなく、行動を変えたりコントロールしたりすることは、単にストレスをもたらし、それが耐えがたくなり、怒りや、さらなる投影へとつながっていく、と述べられています。
とはいえ、自制心を養うことや、制御不能な行動をコントロールすることには価値がない、というわけではありません。特に、もしその依存症が私たちに肉体的あるいは精神的な害をもたらし、それによって心の中の罪悪感を強化しているという場合は、なおさらです。また、有益な外的変化をもたらそうという選択が、心の中のシフトへの願望を確かに反映している、ということもありえます。仮にそれがまだ無意識下の望みにすぎないかもしれなくても、「自分の従う教師を、自我から聖霊に取り替えたい」という真の望みであるかもしれないのです。
いずれにしても、学びの段階のどこかで、私たちは必ず、「心の中の罪悪感こそが、常に唯一の問題である」ということが、わかるようになります。「心の中の罪悪感が外の世界へ投影されることは、避けられないことである」と理解することによって初めて、私たちは心の中の罪悪感に気づき始めます。そして、心の中でなら、私たちは罪悪感を手放すために有効な選択をすることができるようになるのです。
[2026年9月6日]