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JQA#12: 原因を取り消すのか、結果を取り消すのか

jacim q&a

【質問】


赦しについて、「テキスト第5章、セクションVIIの6:7―11」と、「ワークブック、レッスン23、5:1-4」を読むことによって理解が深まっています。


けれど、「原因と結果(因果律)」というものの理解がまだ不足していて、ここを明確に理解したいと思って質問をお送りさせていただきました。


「ワークブック、レッスン23、5:1-4」を読んだ時に、赦しとは、わたしの「見ている世界の原因を変え」ることなのだ、と理解しました。


つぎに「テキスト第5章、セクションVIIの6:7―11」を読み、自分の赦しにその文言を適用していた時に、「わたしの間違った決断の結果を取り消してもらうことを選択する」とあることに気づきました。

なぜ、ここで聖霊に依頼するのが「原因の取り消し」ではなくて「結果の取り消し」」なのか。


そこで、これは「原因と結果」の理論が関わっていると気づき、JACIMの用語集から「原因と結果」を確認しました。そこには「赦しは、罪からはどんな結果も生じていないことを実証することによって、罪を取り消す」とありました。


ということは、赦しのステップにおいては、聖霊に取り消しを依頼するのは常に「結果」である、ということなのでしょうか。わたしは赦しの本質である「自我を直視する」ということは「原因(自分が分離を選択した)」を批判なく見つめ、その「原因」を聖霊に取り消してもらうことだと思っていました。


聖霊に「原因」を取り消してもらうのか、「結果」を取り消してもらうのか。
「結果」を取り消してもらえば、「原因」は存在しないということになるので、「原因」の取り消しを依頼する必要はないのか。
それとも、赦しを行う際には「自分が分離を選んだ」ということを見て、その上で「結果」の取り消しを依頼する、ということなのか。

赦しを行う際に混乱してしまいます。


このことについてもっと理解できるようにアドバイスをいただけないでしょうか。
よろしくお願いいたします。
                                                                                       質問者  N.O.さん


 
【回答】
 

ご指摘の3箇所においては、それぞれ、「原因と結果」の原則の異なる側面が強調された形で述べられているため、わかりにくいかもしれませんが、実際には、これらすべてに一貫性があります。


以下に、それぞれを整理しつつ、相互のつながりがわかるように説明してみます。
 
ご指摘の通り、「ワークブック」のレッスン23、5:1-4が述べているのは、「世界についての考えを変えること」、つまり、「原因」のレベル(心のレベル)での変化についてです。


同じレッスン23の段落2にも、この点は非常に明確に述べられています。


世界を嘆いても無駄である。世界を変えようとしても無駄である。それは結果にすぎないのだから、変わりようがない。しかし世界についてのあなたの考えを変えることならば、確かに意義がある。そうすれば、原因を変えることになるからである。その結果は自ずと変わっていく。(W-pI.23.2:2-7)


これは、コース中で繰り返し述べられている重要な基本原則ですから、この原則に例外が設けられることはありません。
 
 
一方、テキスト第5章、セクションVIIの6:7―11の中の「聖霊に任せれば、わたしの間違った決断の結果を取り消してもらえる」というフレーズは、ここだけ見ると「聖霊に依頼するのは、結果を取り消してもらうこと」と述べているように見えるかもしれませんが、段落5と段落6のあたりの文脈全体の中で考えれば、「原因を取り消すことを選択することによって、結果が取り消される」ということを述べていることがわかるはずです。


直前の文6:5は、次のようになっています。


あなたの役割は単に、誤りが犯された地点まで自分の思考を戻し、それを平安のうちに贖罪に引き渡すことだけである。


これは、明らかに、「原因を変える」という意味です。


そして、次の6:6の文:


あなたからのごくわずかな招きに対してでも聖霊は充分に応えてくれるということを思い出しながら、できる限り誠実に、自分自身に次のように言いなさい。


ここで、「聖霊を招く」という概念がでてきますが、これが、「自分の間違った選択を手放して、選びなおしたい」という、原因レベルの変化を求める「ささやかな意欲」を差し出すことです。


その少しあとの6:9で、「別な決断をしたい」と言っているところも、原因レベルでの変化を求めています。


6:10の文の最初の「私は罪悪感を感じない」という決断の言葉は、赦しの第二ステップの、「もはや、罪悪感は自分の望むものではない。手放したい」という宣言です。


そして、6:10-11では、このように、すでに原因を変えることを求めた上で、「そのように求めれば、間違った選択という原因から生じていた結果は、取り消されるだろう」と言っています。
 
 
次に、ご質問の中の3番目の引用文、JACIMの用語集の「原因と結果」の説明の中にある「赦しは、罪からはどんな結果も生じていないことを実証することによって、罪を取り消す」というのは、以上とは違う角度から語っています。


「原因と結果」は『奇跡講座』における重要なテーマですが、以前の説明の中でも述べました通り、この世界では、結果が原因から切り離された上で逆転させられていて、結果が原因のように見えていますから、この世界に生きている人が、心の中の真の原因にまでさかのぼるのが非常に難しくなっています。また、「原因と結果」の理論について説明したり、理解したり、それを日常生活の中で思い出したりすることが難しいのも、同じ理由によるものです。


ですから、これは、じっくり学びながらゆっくりと馴染んでいくとよいテーマなのですが、ここでは簡単に概略のみを説明します。


『奇跡講座』が述べている「原因と結果」には、実相レベルと分離後のレベルとの二つがあり、実相レベルの「原因と結果」は「神と神の子」であり、両者は永遠にひとつのものです。


ですから、私たちが赦しを学んでいるときに問題にしている「原因と結果」というのは、分離後の「原因と結果」のみについてです。


ということは、このレベルの「原因」、つまり「分離した神の子」(=自我)(=分離の想念)(=罪)という「原因」は、実在していません。このことが真に理解されて受け入れられたなら、「神からの分離」という幻想は消え去ります。実際、聖霊(=贖罪の原理)においては、「罪」という「原因」はすでに取り消されています。


けれども、自我は神から離れたままで存在していたいので、世界と肉体という「結果」を作り出して、罪」という「原因」を実在させようとしています。


「結果」が存在するということが証明できれば、その「結果」をもたらしたものが「原因」として確立され、実在していることになるからです。

 

結果をもたらさないものは存在しない。そして聖霊にとっては、誤りの結果は存在していない。(T-9.IV.5:5)


原因がなければ結果はあり得ない。しかし結果がなければ原因は存在しない。原因が原因となるのはその結果による。(T-28.II.1:1-2)


そういう意味で、「この世界という結果」があるように見えていることによって、本当は実在していない「原因」が存在しているかに見せかけられていて、「分離の想念」という幻想が維持されているのです。


さらには、世界の中で起こるさまざまな出来事や人々の言動が「原因」となって、私たちに喜びや苦しみなどの「結果」をもたらしているように見えています。


ということは、本来は「結果」でしかないこの世界や肉体が、「原因」になりすまして、私たちに影響を及ぼしている、ということになります。


これが、「原因と結果の逆転」であり、本来の「原因と結果」の関係をさらにわかりにくくしてしまう煙幕となっています。


そこで、もし私たちが外界の出来事によって傷ついたり動揺したりするなら、それらの出来事は結果をもたらしたということになり、それらが実在するということになってしまいます。


実際に、私たちは、毎日、毎時間、毎瞬、そのようにしてそれらが実在すると感じながら生きています。(それほどまでに、私たちは「真の原因」から離れています。)


ですから、「自分はそのようなにせの原因から影響されていない。にせの原因は、自分に結果をもたらしていない」ということを示すことができれば、それが、「にせの原因」は実在していないということを実証することになるのです。


以上のことを赦しのプロセスの説明につなげるなら、次のようになります。


誰かが自分を攻撃したとき、その相手について、「私はこの人の行為によって、ちっとも傷ついていない。今も、神の愛から離れていない」と言えるなら、その相手の行為は、「私の悲しみや苦しみ」の「原因」とはならなかったことになります。それはとりもなおさず、「にせの原因」を素通りしてしまうことです。


「原因」になりすましているものを「原因」と認めないということです。まるで、壁が透明になって、そこをすーっと通り抜けてしまえるようなものです。そのようにしてそこを通り抜けているときには、「真の原因」のレベル(=心の中)まで戻っています。


だから、「他者の言動が自分に何の結果ももたらしていない」と示すことが、「真の原因」を変えることになるのです。


ビデオV#5の後半のQ&A「自我の不意打ち」も、「原因と結果」について触れていますので、それも参照してください。

 


  
       ◆質問者のN.O.さんからのコメント:
       加藤さん
       回答ありがとうございました。
       回答とビデオを併せて何度も読み見て、理解が深まりました。


>本来は「結果」でしかないこの世界や肉体が、「原因」に
なりすまして、私たちに影響を及ぼしている、ということになります。
これが、「原因と結果の逆転」であり、本来の「原因と結果」の関係を
さらにわかりにくくしてしまう煙幕となっています。


       これはほんとうにそうだと感じます。
       どうしても理解するのが難しく感じられるのは、私たちの心が混乱し、真理を見失っているからなのですね。


       ワプニック博士の講義もものすごく深くて、日常の中でコースの概念を
あてはめたり、赦しを実践していくことでしか真の理解に至らないのだな、
と改めて受け取りました。


       いただいた回答に何度も立ち戻りながら、さらに学習と実践を通して、
頭の理解を体験に落とし込んでいきたいと思います。


       一つ確認したいことがあるのですが、
「誤りが犯された地点まで自分の思考を戻し」(テキスト第5章、セクションⅦ.6:5)

というとき、とは厳密にはどの地点のことなのか、ということについてです。


       コースの説明では、分離が起こった(と思った)瞬間に起こったことと、分離の中で選択していったことに、段階があるように感じられます。


       小さな狂った考えを深刻に受け止めた→心が「間違った心(自我)」と「正しい心(聖霊)」に分離した→自我の思考体系を選択をした。


       わたしは知覚のレベルの「原因」という場合、「自我」か「聖霊」か、という選択で「自我を選んだ」というだけでなく、上記のすべての段階の選択を全部ひっくるめて「原因」と捉え、それを選択したと
いうことを認め、選び直すという風に捉えています。


    ビデオV#5で、ワプニック博士が、「原因とは、分離するという決断であり、イエスや聖霊を押しのけようという決断でもあり、自我と一緒にいようとする決断です。」と話されているので、上記のすべての段階が含まれているように感じました。


    その理解で間違いないでしょうか。         N.O.

 


  
 返答:   コメントありがとうございました。お役に立てたようで、何よりです。
最後のご質問については、おおまかには、その理解で大丈夫です。
本来は、これはすべて時間の外で一瞬のうちに起こったことなのですが、
言葉で説明しようとすると順を追って段階的に説明しなければならなく
なるし、文脈や論点の違いにより焦点が変わることもあるので、異なった
表現のしかたも可能になる、と言える面もあるのです。いずれにしても、
コース全体を通して、この選択の地点に戻って選びなおすことについて、
いろいろな角度から語られていますから、コースを繰り返し読むうちに
さらに理解が深まっていくことと思います。 加藤 



     [ 2014年11月22日]

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