JQA#13: 罪悪感と投影と赦し
【質問】
罪悪感と投影と、さらに赦しについての質問です。
罪悪感については「奇跡講座入門」のP.71にある「罪悪感とは、実際、私たちが自分自身に抱いたことのあるすべての否定的な感情と信念と経験の総和です」を基にして書いています。
(同じ言葉が何度も出てきて読みづらくなっていますが、「それ」を何度も使うと間違いの元だと思って、同じ言葉を使わせていただきました。)
私は、次のように理解しています。
神から分離したと思ったので自分には罪があると思った。
そのことが罪悪感となり、自分は神から罰せられるに違いないと思った。
しかし、この考えは隠蔽されていて普段は表に出て来ない。
否定的な思いをさせる相手や状況があるとき、それが自分の否定的な思いの
投影であると気が付かなければ、「私に嫌な思いをさせるあなたが悪い」と
相手を攻撃することになり、深いところでさらに罪悪感を持つようになる。
それとは別に、聖霊が「否定的な思いをさせる相手や状況」を使うと、否定的な
思いは元々自分の中にあり、それを相手に投影したものであって、否定的な思いが
起きることで自分の中に「神から罰せられるべき」という罪悪感があることに気が
付ける。そういう思いを元々持っていることに気が付ける。
(否定的な思いというのは投影しなければ、自分を攻撃していると理解しています。)
罪が本来無いのだから罪悪感もあり得ないということで、聖霊に訂正をお願いします。
こういう理解を基に、まず「自分の否定的な思い、信念、経験に気づいて赦す」と
いうことをしていました。(聖霊の視点から見るとどうなのかと、自分に問う感じで、
赦しをしていました。)
それから「分離を赦す」という方にも進んで来ています。
最初に「自分の否定的な思いを赦す」というのは、テキストの次の部分からそう思っていました。
「この考えはそれ自体のレベルにおける訂正を必要とする」(T-1.VI.3:1)
次に「分離を赦す」のは、その文の続きで、
「それが訂正された後に複数のレベルというものを知覚する誤りが訂正できるようになる」(T-1.VI.3:1)
というところを基にしています。
私の理解で訂正した方が良いところがありましたら教えてください。
よろしくお願いします。
トミー
【回答】
「罪悪感」と「投影」については、ほぼ問題ありませんが、「赦し」については、もう少し深く掘り下げることが可能ですので、FACIM の Q&A から、翻訳して、Q&A#88を翻訳しました。赦し方の3つの例を紹介しているQ&Aですので、そちらも参照してください。
さらに、ここでも、少しだけ付け加えます。
「罪が本来無いのだから罪悪感もあり得ない」というのは、確かに「聖霊の視点」(=贖罪の原理)から見ればその通りです。けれども、赦しが必要なときの私たちは、まだ、それを信じてはいません。
むしろ、自分には罪があると信じて、罪悪感を抱いています。
「自分が罪を犯した」と思うことにより、自分で罪悪感を感じることを選んだからこそ、罪悪感が自分の中に存在しています。
けれども、それが投影されているときには、自分がそれを選んだということが自覚されていません。その自覚を回避するためにこそ、投影しているからです。
ですから、赦しのためには、「罪悪感が自分の中にある」ということに気づくだけではなく、「その罪悪感は自分で選んだ」というところまで気づかなければなりません。
そうしてはじめて、別の選択をすることができるようになります。
したがって、取り消しのための最初の一歩は、自分は積極的に誤った決断をしたが、同じく積極的に別の決断ができると認識することである。(T-5.VII.6:3)
私は自分でこの決断をしたが、別な決断をすることもできる。(T-5.VII.6:8)
もしもこの点が曖昧にされて、「罪は無いのだから罪悪感もあり得ない」と頭で理解しただけで、あとは聖霊に任せれば罪悪感を消せると期待するなら、再び、罪悪感を否認(=抑圧)してしまう可能性があります。そうなると、否認・投影のサイクルがまた振り出しにもどって、別な形で繰り返されることになってしまいます。
もし「聖霊にすべてをゆだねなさい」と教えるだけのためなら、こんなに分厚いコースは必要ありません。『奇跡講座』が数百ページをも費やして、自我とその精神力動について克明に説明しているのは、私たちが自分の中の自我の想念について、以上のような微妙な側面に至るまで、認識できるようになるためなのです。それが、無意識の領域に深くうずめられた罪悪感を解き放つ手段となります。
あなたが隠しておくものは、聖霊がそれを光で消し去ることはできない。というのも、あなたはそれを聖霊に差し出しておらず、聖霊はあなたからそれを取り上げることはできないからである。..... したがって、私たちがこれから取り組むのは、あなたが望んでいない一切のものを聖霊に差し出す方法を習得するための、体系的で緻密な構成をもつ周到に計画されたプログラムである。(T-12.II.9:8-9, 10:1)
* * *
次に、ご質問の後半で述べておられる「分離を赦す」ということについて:
引用しておられる文(T-1.VI.3:1)の意味については最後にご説明しますが、結論から先に言うと、「分離を赦す」ということと、「自分の否定的な思いを赦す」ということを、それぞれ別な種類の赦しと見なして、別々に行う必要はありません。日常生活の中の人々や状況を赦すという身近な赦しの一つひとつが、最終的には、神からの分離を癒すことにつながっていきます。
さらに言えば、私たちは、自分が今いる場所で赦していくことしかできませんし、最初から、「神からの分離」を癒すことに、直接取り組むことはできないのです。この世界にいる私たちは、その分離が起こった心の中を恐れて、そこから逃げ出してきてしまったからです。だから、間接的アプローチから始めることが必要なのです。
そして、その積み重ねにより、最終的には、「直接的アプローチ」(T-1.VII.5:8)が可能になるところまで戻っていきます。
ですから、長年の間には、学ぶ者の視点が、この世に生きる個人の視点から、心の中の視点へと、徐々に移行して行く、ということです。
こうした道を進んでいくことが、『奇跡講座』の真の実践です。それは、長い道のりであり、先へ進めば進むほど、理論や知的理解や言葉による説明などを超えた体験となっていきます。けれども、この道を見つけるため、そして、そこから迷い出てしまわないようにするためには、基本的理論の理解は不可欠です。
進んでいくにつれ、この道はかなり違ったものとなっていく。また、旅を続けるにつれて目前に現れてくる壮大さや、雄大な景観や、広々と開けていく眺望のすべてについて、あらかじめ知ることはできない。だが、それらの壮麗さは先に進むにつれて言葉に尽くせぬ高みにまで達するとはいえ、そうしたものでさえ、この道程が消滅してそれと共に時間が終わるときに待っているすべてに比べれば、その足元にも及ばない。
(M-19.2:5-7)
それでは、最後に、引用文T-1.VI.3:1についてです。
必要の序列という考えは、人は神から分離できるとする原初の誤りからの帰結であるが、この考えはそれ自体のレベルにおける訂正を必要とする。それが訂正された後に、複数のレベルというものを知覚する誤りが訂正できるようになる。
ここに、基本的理論の理解を当てはめて見ていくなら、この文の意味は、次のようになります。
「必要の序列」(すなわち、「必要なものがいくつもあって、一番必要なものから、あまり必要ないものまで、異なる必要度の順位がある」)という考えは、「神の子が神から分離することが可能である」と考える最初の誤りから生じたものである。そして、「必要の序列」という考え自体は、それが生じたレベル
(=心の中)で、訂正されなければならない。そうした「必要度の異なる様々な必要がある」という考え自体がなくならなければ、複数のレベルというもの(つまり、「心のレベル」、「肉体のレベル」、さらには、「肉体/世界のレベルの中の無数のレベル」といったさまざまなレベル)を知覚してしまうという誤りを犯さないようにすることは、不可能である。言い換えれば、さまざまな必要とその必要度の順位というものがあると考えている限り、実際にさまざまなレベルを知覚してしまうことは避けられない。
そして、さらに、すぐそのあとのT-1.VI.3:3の文では、
あなたがそのように機能している間は、訂正は下から上に垂直に導入されなければならない。
・・・とあります。
以上をつなげて簡潔に述べると、次のような意味になります。
「さまざまな必要がある」という間違った考えは、心の中で生じたので、心の中で訂正されなければならない。そうした考えがなくなってはじめて、異なった必要がある複数のレベルを知覚するということがなくなるのだが、すでに複数のレベルがあると知覚されている現状では、その訂正は、この世界のレベルから心のレベルへ向って、下から上へ順々に行われていかなければならない。
これについては、JACIM本館のQ&A#64「訂正は下から上へ垂直に」も参照してください。
[2014年12月12日]
◆ 質問者のトミーさんからのコメント:
先日は私の質問に丁寧にご回答くださってありがとうございます。
また、関連するJACIMのQ&Aの翻訳をしてくださってありがとうございます。 赦しについては私だけでなく、多くの人が具体的にどうしたらいいのか、疑問を持っていると思います。
「赦し方の3つの例」でだいぶ疑問点は解消されたのですが、もう一度確認させていただきたいところがあります。
それはこういう言葉を使って良いのかどうか分かりませんが、「赦す」対象です。
今まで罪悪感の側面である「自分の否定的な思い、信念、経験」を赦す対象として、「この思いは間違っている」、「これを訂正してください」と、聖霊にお願いしていましたが、これは罪悪感を選択した結果なので、「罪悪感」そのもの、「罪悪感」と言う大きな括りを赦しの対象として良いのでしょうか?
つまり「自分の思い」ではなく、「罪悪感を訂正してください」と聖霊にお願いするということです。
これから私がする赦しの仕方として、具体的に例を挙げると
悲しい思いをさせる人がいるとして、
この悲しみは私が罪悪感を選択してしまった結果である。
この選択は間違っていたので別な選択をしたい。
「聖霊、それを助けてください」と聖霊に依頼する。
これですと自分の見方(「この人が悲しい思いをさせる」)は、自分が罪悪感を
選択をした結果の間違いであり、「選択しなおしたい」と言う意欲も表して
いますので、形としてはこういう感じで構わないでしょうか?
もちろん、その時々で必ずしもこうはならないと思いますし、言葉だけでなく
真剣な思いも必要と思います。
「分離」を赦すことについては加藤さんが書いてくださったことと、参考資料としてくださったもので良く分かりました 続けての質問の件もよろしくお願いします。ありがとうございました。
トミー
回答:
コメントありがとうございました。追加のご質問にお答えします。
赦す対象は、罪悪感ではないのです。(これは、「罪悪感」という大きな括りとしてでも、罪悪感の側面としての「自分の否定的な思い、信念、経験」としてでも、同じことです。)
「自分が罪を犯した」と思うことにより罪悪感を感じるわけですから、赦される必要があるのは「罪を犯したという信念」です。具体的には、「神から分離したという思い」、その他、それに類する「分離の想念」です。そして、そうした分離の想念を信じたのは自分の決断だったということを自覚することが、重要な点です。
「赦し方の3つの例」の中から例を挙げれば、<その1>の中に、「私は再び内なる教師(イエスか聖霊)からの愛を拒否し、それについて自分を裁き、罪悪感を感じた」という文がありますが、この中の「内なる教師からの愛を拒否した」というところが、「罪」と知覚されて、罪悪感を生じさせています。
ですから、この例では、赦す対象は、「愛を拒否した(と思った)」というところです。
もう一つ例を挙げれば、「奇跡講座入門」の130 ページで、次のように述べられています:
「この罪悪感は神から私たちに授けられたものではなく、私たち自身が、自分を神が創造した存在とは違うものとして見ると決断したことによってもたらされているのです。それは、私たちが自分自身を、神の子としてではなく、罪悪感を抱いている自我の子として見る、という決断でした。」
この場合も、赦して手放す対象は、この決断です。
以上のことを、赦しのステップの具体例として述べると、次のようになります:
私を悲しませる人がいる。
この人の言動が、私に悲しみをもたらしているように感じられるが、本当は、この悲しみはもともと私自身の心の中にある。
なぜ、自分の心の中にこのような悲しみ(罪悪感)があるのかというと、私自身が、「神から離れたい」と望み、神の愛を拒否して、自我を選んでしまったからである。
このように、自ら望んで、愛から分離することを選んでしまったけれど、もうこの選択をし続けたくはない。
「聖霊、別の選択ができるように助けてください」と、聖霊に依頼する。
・・・となります。
もちろん、これは例ですので、原則さえ押さえておけば、実際に使う言葉はこの通りでなくてかまいません。
以上で、明確になったでしょうか。もしまだ不明な点があれば、また聞いてください。 加藤
◆トミーさんからのコメント:
大変詳しい説明をありがとうございました。
読んでみて、自分のしていた「赦し」のポイントが違っていたことに気が付きました。
また、「奇跡講座入門」の125ページからの「赦しの三つのステップ」を照らし合わせて読みましたら、今まで良く分からなかったことも理解できるようになりました。
本当にありがとうございました。 トミー