JQA#14: 「赦しの3つのステップ」が正しく行われたかどうか
【質問】
JACIM本館、質問No.81の回答などで述べられている「赦しの3つのステップ」では、第2ステップまでが我々 に委ねられており、この段階において、「私たちは、罪悪感という自我の思考体系と同一化することを選択する代わりに、無罪性という聖霊の思考体系と同一化 することを選択」し、最後の第3ステップは聖霊が取り計らってくれるとあります。
私が赦しのプロセスを行うなかで、正しいプロセスを踏んでいるかどうか指標になるものはあるのでしょうか。
テキストのどこかに「あなたの感情が指標 になる」というような文言があったようにも記憶しています。とはいえ、心が真に平安なのか、平安なつもりでいるだけなのかは似て非なるものです。自分 の心を正直に見つめるというのが鍵なのだとは思いますが、このあたりを教えていただけると助かります。
T.F.
【回答】
一番よいのは、やはり、ご自身で、試行錯誤を経ながらでも、体験的に納得できるものを掴んでいかれることだと思います。
そうは言っても、誰でも学び始めたばかりの時期には、何らかの目安になるものがあればいいと思うのも自然なことですし、ご指摘の通り、以下のテキストの文言を読んでも、「心が真に平安なのか、平安なつもりでいるだけなのかは、似て非なるもの」と感じる人々も、きっと多いことと思います。
どうすれば、自分が天国に上る階段を選んだのか、地獄へ下る道を選んだのかがわかるのだろうか。それはきわめて簡単である。あなたはどのように感じているだろうか。平安を自覚しているだろうか。自分がどちらの道を進んでいるのか確信があるだろうか。天国というゴールは達成可能だと、あなたは確信しているだろうか。もしそうでなければ、あなたはひとりで歩いているのである。(T-23.II.22:6-12)
ですから、もう少し実用的な「指標」となりそうな例を、いくつかあげてみます。
赦しのプロセスが正しく行なわれた後によく見られるパターンの例としては、たとえば、次のようなものがあげられます:
* じわじわと喜びがわいてくる。
* 重苦しかった気持ちが軽くなる。
* さっきまでイライラしていたことが、「どうでもよい」と感じられる。
* ふと気が付くと、先ほどまでの怒りが消えていて、 「自分は、いったい何について怒っていたのだろう」とさえ思われる。
* 張り詰めた思いが緩んで、体の緊張がほぐれる。
* 気持ちが穏やかになって、深い静けさに包まれる。
* 「どうしても、~ をしなければ気がすまない」というような、こだわりや、切羽詰った思いがなくなる。
* 他人を責める気持ちが消えている。ありのままのその人を受け入れられる(あるいは、受け入れたいと思える)。
・・・など。
以上は、卑近な例をいくつか挙げてみただけですが、これらすべてに共通する要素があり、重要なのはその共通項の部分です。
すなわち、これらの例はどれも、「しがみついてきた裁きや咎めや攻撃の想念を手放したことにより、重苦しさや緊張感から解放された状態」であると言えます。
凝り固まっていたものが、柔らかくほぐれるような感覚です。
こうした感覚の延長線上にある平安であれば、「真の平安」である可能性は高いと言っていいと思います。
ただし、(ここが重要なところですが)このコースの実践というのは、「赦しの3ステップ」を、いわゆる「テクニック」として使いこなすことではありません。これら3つのステップは「赦しの基本型」のようなもので、実際の赦しは、もう少し柔軟に適用できるものですし〔 Q&A#88の赦し方の例を参照 〕 、いずれは、「ステップを踏む」ということもなくなって、連続的で一様な「ものの見方」となり、最終的には、心眼{ヴィジョン}となります。
赦しは、じっと静かにしていて、何もしない。 (W-pII.1.4:1)
このように、「何もしない赦し」は、赦す対象の種類(例えば、攻撃、喪失感、孤独感などといった形の違い)も区別せず、すべてを同じものとして見過ごします。
上記の「指標」の例として挙げた状態は、それ自体の達成が赦しのゴールなのではありません。
赦しのプロセスが正しく行なわれるなら、歪んだ知覚が少しずつ癒されていき、いつの日か、心眼{ヴィジョン}で知覚できるようになり、もはや、赦すべきものは知覚されなくなります。
それが、赦しの最終的なゴールです。
自らの赦しによって、心眼{ヴィジョン}が得られるようになるということを、悟りなさい。(W-pI.75.7:1)
赦しは、知覚に終わりをもたらすために定められた手段である。・・・ 赦しはさまざまな歪曲をぬぐい去り、隠れていた真理の祭壇を開く。赦しの百合の花が心の中を光で照らす。そして、戻ってきて内側を見るようにと心に呼びかけ、これまでむなしく外に探求してきたものをここに見出すようにと促す。
唯一ここにおいてのみ、心の平安が回復される。(W-pII.336.1:1, 1:4-6)
[2015年1月11日]
◆ 読者の Love さんからの質問( 2015/01/20) :
(質問の原文はかなり長いため、省略・要約してあります。)
>このように、「何もしない赦し」は、赦す対象の種類(例えば、攻撃、喪失感、
>孤独感などといった形の違い)も区別せず、すべてを同じものとして見過ごします。
この「見過ごす」はあくまでも、赦しの実践練習をやり続け、それが生き方になった
状態の「在り方」のことという理解でよろしいでしょうか? 見過ごす姿勢というか・・・・
テキストに、「聖霊の助けを求める前に自分の罪悪感を見過ごそうとしては
ならない。それは聖霊の機能である。あなたの役割はただ、すべての恐れと
憎しみを取り除いてもらいたいし、赦されたいというささやかな意欲を聖霊に
差し出すことだけである」(T-18.V.2)と書かれています。
また、例えば「実践」を始めたばかりの時期は、罪は実在のものと完全に疑う
余地も入り込めない程思い込んでいることから始まるので、「見過ごす」ことは
「隠蔽」だったりすることがあると思います。
ワークブックのレッスン134の「この概念は歪曲されがちであり、正義の
怒りが不当に犠牲にされるもの、正当性のない分相応な贈り物、あるいは、
真理の完全な否定として知覚される傾向にある」と説明されている様に、
本当に、表面では完璧に赦しを出来ているつもりになっていても、この
レッスン134に書かれている通りに思っている自分と出会っていったり
しますし、私は実践出来ているという「実践過信」が結構ありがちな様にも
感じます。
そして、「見過ごす」ことは安易に出来るわけではないので、練習を要すると
いうことが既に含まれているという理解で宜しいでしょうか?
また、JQA#13で述べられているように、自分が決断して
いるんだというところまでさかのぼって自分が選んでいることを自覚出来る
ようになれることがまずは大事で、「自分が本当に決断してこうなっている
んだ!!!」という理解が起きていない状態で、「聖霊に丸投げする」という
実践スタンスは、赦しではないという理解で宜しいでしょうか?
回答:
真の赦しが起こったときには、常に、必ず、誤りが見過ごされています。
赦すことは見過ごすことである。(T-9.IV.1:2)
けれども、そのとき、「見過ごすこと」を行なったのは、「自我としての私」
ではありません。
あなたには贖罪において果たすべき役割があるが、贖罪の計画は
あなたを超越している。あなたは誤りを見過す方法を理解して
いない。理解していたなら、もとより誤りを犯すことはない。
(T-9.IV. 2:1-2)
この、「あなたには贖罪において果たすべき役割がある」というところの
意味は、3つのステップで言えば、その最初の2つを私たちが行わなければ
ならない、ということです。逆に言うと、私たちにできるのは、赦しが
起こるための準備を整えるところまでで、それ以上ではありません。
つまり、「見過ごすこと」は、私たちが行なわなければならない最初の2つの
ステップに含まれていません。
以前、この3ステップを「テクニック」と考えるべきではないと述べたのも、
それが、私たちを「超越している」計画だからです。
赦しのプロセスを自分で最後までコントロールしようとすると、それを
自分のレベルに引き下げることになり、「自我の救済計画」となって
しまいます。
ですから、練習が必要なところは、ステップ1とステップ2だけで、第3
ステップに属する「見過ごすこと」ではありません。(このコースの大部分が、
どのようにしてこの2つのステップを行うか - 特に、自我を見ること -
について教えていると言っても過言ではありません。ですから、それについては
コース自体から学んでください。)そうすれば、「聖霊の心眼{ヴィジョン}」
につながることができるので、「赦し」が可能となります。
そして、ご指摘の通り、自分では見過ごしているつもりでいるけれども、
実際には「隠蔽」や「否認」となっているということは、当然あります。
そのことに気づいていくことも、このコースの実践の一部です。
「隠蔽」や「否認」をしているときには、ステップ1とステップ2
(その両方か、どちらか一方か)がなおざりにされているので、ステップ3
まで達していません。「聖霊への丸投げ」の場合も同様で、ステップ1と
ステップ2が飛び越されています。
肝心なところは、私たちが自分で罪にしがみついている限り、聖霊には
それを取り消せないので、「自分が確かに罪にしがみついている」と
いうことを自覚して、「それをやめたい」と思うことが必要だ、という点です。
時には、それが容易に自覚できるときもあり、そういう場合は、
「聖霊への丸投げ」でも、赦しがうまくいくように見えるときも
あるかもしれません。もし一時的に気分がよくなることだけを
目指しているのなら、それでもいいのですが・・・
でも、私たちの罪悪感の大部分は水面下の氷山のように隠されている
ので、多くの場合、容易に自覚できません。そのように深いところに
埋もれている無意識の罪悪感を消し去ることを目的とするコースである
『奇跡講座』は、「聖霊への丸投げ」以上のことを教えているのです。
加藤