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JQA #23: 赦しの第2ステップの具体的なやり方

jacim q&a

【質問】

赦しの第2段階の具体的なやり方が、いまいちよくわかっていません。感じたネガティブな感情について、第1段階で、自分の心が作り出したものだと認識した後は、その後はどうすればよいのでしょうか?


「ネガティブな感情を消すためではない」、「そうした感情を使ってその奥にあるものを突き止める」ということは理解していると思いますが、私が難しいと感じるのは、それ以降の手順です。心の中にあるものを冷静に見て、感じるというところを、具体的に、詳しく教えていただけると助かります。(例えば、心の中で、どのような動き、心象風景を描くのか、など。)


(*同じ質問者の方から2つの関連する質問が同時に提出されましたが、2番目の質問には後日お答えします。)
 


【回答】

具体的な手順について述べる前に、まず、明確にしておきたいことがあります。「赦しの3つのステップ」という言葉は、ともすると、「指示通りの手順を行なえば、すぐに期待通りの結果が得られる」という種類の、料理のレシピの手順のようなものを連想させてしまうかもしれないのですが、実際には、赦しのプロセスを3つの側面に分けて説明していると捉えるほうが適切です。


その観点からすると、赦しの実践のために一番役に立つのは、自我の思考体系についてよく理解することです。そして、それを逆転させれば、それが赦しのプロセスとなるというところを覚えておくことが重要です。


ですから、以下に、第2段階について説明しますが、これを単独で理解しようとせずに、常に、自我の思考体系の逆転プロセスという大きな枠組みの中で捉えるようにしてください。


以上を踏まえた上で、赦しの第2段階で何をするのかについて、簡単に述べてみます。


まず、例えば、「友人に裏切られたと思って怒りを感じている」という状況があったとします。


「私はこの人が自分を裏切ったせいで怒りを感じているのではなくて、本当の原因は自分の心の中にあるのだ」と認識する、というところまでが、第1ステップでした。


(ちなみに、第1ステップの段階で、自分がしたことやしなかったことゆえに、自分自身に怒りを感じたり、自分を咎めていたりしている場合もありますが、それも、他人への怒りと同じように扱うことができます。説明が複雑になるので、ここでは他者に対する怒りのみを例として挙げますが、この世界の中の具体的状況に現れる「被害者と加害者」の構図そのものが、心の中の罪悪感の投影です。)


さて、その後の第2ステップで達成されるのは、次のようなことで


●「友人に裏切られたように思ったのは、私自身がそのように解釈するという選択をしたからだった」と認識する。
● さらに、「そのように自分を被害者と見るという私の選択は、私の心の中の罪悪感の投影だった」と認識する。
● さらにその罪悪感(神からの分離にまつわる罪悪感)を感じることも、一つの選択だった」と理解し、最終的にはその罪悪感を手放す。

そのためには、まず、この友人に対する怒りの感情を、自分の心の中の罪悪感に触れるために使うことができます。


第1ステップで「原因は自分の心の中の自分の選択にある」ということを認識しても、それだけでは、まだ怒りの感情は消えていません。知的レベルの理解として、「そういうことなのだろう」と受け入れていても、嫌な気持ちや不快感は残っています。


それでもとにかく、とりあえず、その友人のことは脇に寄せて、その「嫌な気持ち」を感じつつ、今度は自分の心の中へと注意を向けてみます。そして、その不快感と共にしばらくとどまってみます。


その時、次のような文を思い出すと助けになります。


罪悪感を感じていなかったなら、あなたが攻撃することはあり得ない。(T-13.in.1:1)


自らを責める者だけが有罪宣告を下す。  (T-31.III.1:1)


あなたは決して兄弟の罪のゆえに彼を憎むのではなく、あなた自身の罪のゆえに憎むのである。(T-31.III.1:5)


・・・あなたが彼の中に見ているのはあなたの罪のみだからである。あなたはそれを自分の中ではなく、そこに見たいのである。(S-2.I.4:1-2)


要するに、誰かを咎めたり責めたりしているとき、心の中では、自分を咎めている、つまり、罪悪感を感じている、ということです。


相手との葛藤から生じた不快感をしばらく感じていると、その通りだということがわかってくるはずです。(すぐにわからなくても、いつかはわかるようになります。)


ですから、友人に対して怒りを感じていたという状況から、自分の中に、自分自身に対する怒りがあるということを発見します。


直視しなければならないのは、この怒りや咎めの気持ち(=罪悪感のバリエーション)です。


「直視」と言うと、視覚的に見るというイメージになるので、どういう心象風景を思い描くのかというような疑問を持たれるのはご尤もなのですが、視覚的なイメージは必ずしも必要ではありません。自然に何かイメージが浮かんできて、それが役に立つのならば、使うのはかまいませんが、ここで、主にやることは、「感じること」となります。それでも、「見る」、「直視する」という視覚的な言葉が使われているのは、自我の力動が働いている様を見て理解するというような意味合いが含まれているからです。


実際、この第2ステップでは、「テキストから学んできた通りの自我の思考体系とその力動が、そのまま自分の心の中にある」ということを発見することになります。


まず、この罪悪感を感じてみると、ものすごく不快な感情なので、当然、見ようとしても容易に直視できない、あるいは、すぐにでもそれを手放したい、そこから逃れたいと感じてしまいます。それを自分の外に捨てたいと感じるはずです。それがまさに、投影という自我の力動が働いているその瞬間を目撃しているということなのです。


また、この罪悪感を抱いたまま、神に近づいてみようとすれば、恐れを感じます。自分を裏切った友人を赦そうとすれば、直ちに、「赦せない。赦したくない」という気持ちが湧いてきて、その瞬間も、自分が分離を選んでいることがわかります。


こうしたことのすべてが、私たちは完全に自我の支配下にいることを示していいるのです。
普段は、私たちは、「自分は善良な人間であり、自我よりも聖霊を選びたい」と思っていますが、実際には、逆なのです。


赦すためには、自我が隠蔽していたものを明るみに出して、自我による掌握を緩めていかなければなりません。それを可能にするのが、聖霊の助けを借りて、自我を直視することなのです。これは、自我を見て、それをより良いものに変えようとしたりせずに、それと戦おうとしたりもせずに、ただ冷静に、咎めずに見るという、静かなプロセスです。


赦しは、じっと静かにしていて、何もしない。(W-pII.1.4:1)


これを行うにあたり、私たちはきわめて冷静でいよう。私たちはただ正直に真理を探しているだけだからである。(T-11.V.1:4) 


このように、聖霊の助けによっての観点から自我の動きを眺めていくことで、次第に、神からの分離という選択(=事実上は、今この瞬間に、聖霊を押し退けるという自分の選択と同じ)について罪悪感を抱かずに眺めることができるようになっていきます。それにより、聖霊と自我という二つの選択肢の両方が、はっきりと見える状態が再現され、「かつて自我を選んだことは苦しみしかもたらさなかった」と認識されたとき、は自主的に自我を手放したいと思うようになります。


そうなれば、赦しの第2ステップは完了します。

 
* * *


★以下のQ&Aも参照してください:
Q&A. No.113:直視すべきは、具体的な形の罪悪感なのか、存在論的な罪悪感なのか 


[2017年12月21日]

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