JQA #28: 過去の解放と忘却について
【質問】
はじめまして。学習を始めて間もない者です。
わたしは、過去にいじめと親からの虐待を経験しました。
歳をとってから「奇跡講座」を始めたので、すでに恨んではおらず、
過去のふりかえりをしても、細かい虐待内容は忘れているところでした。
このような忘却や、思い出しても恨みの感情がなく
人生の過ぎ去ったセピア色の思い出になっている場合は、
赦したということになりますか?
その人々を神の子と考えることに抵抗は感じておりません。
10年ほど前に、恨むことをやめたのですが
恨むことをやめた以後の人生は、ラクになっていたと感じます。
【回答】
ご質問の語調や雰囲気から感じられる限りにおいては、その虐待の経験については、すでに赦しておられると見ていいのではないかと思います。
特に、「セピア色の思い出」という表現を使うことができるほどになっておられるところなどから考えても、そのように感じられます。
大まかな原則としては、昔のことを思い出して恨みや被害者意識が湧いてこないなら、その問題のその特定の現れ方に関しては「赦した」と考えて大丈夫です。
そして、今、その思い出について苦しいことや辛いことがないなら、「まだ何か隠れているものはないか」と心の中を探し回る必要はありません。
ワークブックのレッスン35に次のような言葉があります。
思い浮かんだことはどれも演習から除外してはならないが、
努力して「掘り起こす」こともしてはならない。(W-pI.35.8:3)
これは、このレッスンの演習のための指示ですが、実生活の中での赦しの実践においても、同じ原則を当てはめることができます。ここで重要な点は、無理に掘り起こす必要はないというだけでなく、浮上してきたことは見逃さずに対応するというところです。
癒されるべきものが残っている場合には、いつかは必ず、何らかの不快な感情となって表れてきますから、その時に赦せばいいわけですが、そのように浮上してくる感情を見逃さないようにすることには、練習が必要です。
そして、ここが、実践におけるかなり重要なポイントの一つとなります。
というのは、上述のように、「何かについて平安を感じているなら、すでに赦している」ということは概論的にはその通りですが、一方では、私たちは「苦しい記憶や傷や痛みを押し殺してしまって、表面上だけ平安を装う」ということもできるからです。
それが、心理学でいう「否認」(または「抑圧」)というものです。それは防衛機制の一つであり、もともと防衛機制というものは、意識していたら耐えられないような記憶を意識の彼方に追いやってしまうための手段です。
ですから、このコースの実践は、そのように否認されてきたものが少しずつ明るみに出されていくプロセスでもあります。
かすかな煩わしさも、激しい怒りを覆い隠すべールにほかならないことを、あなたも次第にはっきりと自覚するようになるだろう。
(W-pI.21.2:5)
そういう意味で、「否認」というものについてよく理解しておくことも、役に立ちますので、今回のご質問の内容からは少し離れるかもしれませんが、「否認」に関する過去のQ&Aを一つ、参考資料としてご紹介しておきます:
・Q&A #12「私の平安は長続きしないように思えます。なぜなのでしょうか?」
[2018年8月10日]