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JQA #31: 神の愛への恐れ

jacim q&a

【質問】


「神の愛に近づきすぎると怖くなる」という点についてお聞きします。


以前から、自分にはどうしてもこのことが理解できないというか、感覚的につかめないのです。
自分は恐れを感じていないと言いたいのではなく、自分は、何かの防衛として、これが理解できないのではないかと感じています。


知的には、神に近づくと自分(自我)が消えてしまうのでそれに対する恐怖というのは理解できているつもりです。この恐怖について、まずはちゃんと感じなければ、そこから先には進めない気がしていて、どのような見方や考え方をしていければいいのかお教えいただけますと嬉しく思います。


 
【回答】


「何かの防衛として、これが理解できないのではないか」とのご推察は、ある意味ではその通りなのですが、それが防衛であるという点は、「悩みの種」とされるべきことではなく、防衛であるからこそ、それがそのまま、このコースの実践の材料となりえます。


多くの場合、『奇跡講座』を学ぶ人々は、何らからの苦しみを抱えていて、そこから逃れたいという動機で学び始めることが多いと思いますが、その場合、その苦しみ(恐れ、不安、怒り、絶望感、孤独感など)を癒そうとしていく中で、自然に、神の愛への恐れや神そのものへの恐れなども浮上してくるものです。


けれども、比較的、平穏無事で幸せな人生を送ってきた人々の中には、愛を恐れるとか、神を恐れるといったことが理解できないという人々が、時々います。神の愛は素晴らしいものであるはずなのに、なぜ、それを恐れなければならないのか、そんなことは意味をなさない、と思うわけです。


そういう人々の場合、2つの可能性があります。


第1は、『奇跡講座』は、その時点(またはその人生)でのその人に適した道ではないかもしれません。その場合は、無理に『奇跡講座』を学ぼうとせずに、神の愛の素晴らしさに焦点を合わせている他の教えを学ぶ方が良いという可能性もあります。ですから、どうしても理解できないという場合は、理解できないことを悩まずに、『奇跡講座』以外の他の道で学ぶ可能性も除外しない方が良いと思われます。


そうでない場合、すなわち、「神に近づくと自分が消えてしまうことへの恐れ」というものを知的には理解しているし、『奇跡講座』を学び続けること自体に関しては全く迷いがないという場合には、その知的な理解を手掛かりにして、順調に学びを進めていくことは可能です。


では、どのような見方や考え方をしていけばいいのかということですが、「まずはその恐れをちゃんと感じなければ、そこから先には進めない」と考える必要はありません。


神の愛への恐れを実感できないということは、確かに、ある種の防衛なのですが、防衛を突破していくことこそが、このコースで学んでいくことです。ですから、「最初に恐れを感じなければ先へ進めない」というのではなく、逆に、「今、感じていることに敏感になれば、その恐れについてもいずれわかるようになる」ということなのです。


というのは、この防衛は「否認」なのですが、否認されたものは必ず投影されますから、投影されたものに注意を払えば、いずれは、否認されていたものの源まで戻っていけるのです。(「否認」については、JQA#28 「過去の解放と忘却について」も参照してください。)


「神の愛に近づきすぎると怖くなる」というフレーズは、おそらく、「思考の逆転」からのものと思われますので、同じ「思考の逆転」から引用するなら、以下のようにも述べました。(III. 「自我の思考体系」の冒頭の部分)


確かに、私たちは、最初に一人の神の子として神から分離したときのことなど、まったく覚えていません。けれども、その最初の分離が起こったときの自我の力動と同じものが、今この世界で生きている個人としての私たちの考え方を支配しています。


毎日、毎分、刻一刻、あなたは恐怖の時間が愛の座を
奪ったあの一瞬を再び生きているだけである。(T-26.V.13:1)


ですから、このコースの学びと実践のかなりの部分は、知的レベルで理解した「自我の思考体系」というものが、自分の日常生活のごく日常的な出来事の中でどのように浮上してきて、自分のどのような感情や微妙な心理の動きとして表れているのかを、「毎日、毎分、刻一刻」、認識/確認していくことで占められます。


最初は「神への恐れ」とか「神の愛への恐れ」といった抽象的な概念としか感じられないものが、自分の日常の中で表われたときにそれと認識できるようになるために、自我の思考体系とはどのようなものかの詳細を学び、自分の感情や心理の動きを観察することを練習するわけです。


「思考の逆転」の中では、さらに、「不満を手放したくない」とか「憎むことができる相手がいなくなるのは嫌だ」などといった感情を、「神の愛への恐れ」の表われ方の例として挙げましたが(参照:ステップ2の説明の中の「何をどう見るか」というセクション)、『奇跡講座』自体が、まさにこのことについて詳細にわたって説明しているわけです。そのような観点から三部作を読み込んでいくなら、実践のために大いに役立ちます。


そのようにして、赦しの実践を続けていくと、深いところに隠れていた「神への恐れ」や「神の愛への恐れ」を、少しずつ認識できるようになります。


関連ビデオとして、V#30「神への憎悪に触れる」に字幕をつけましたが、そのQ&Aの中では、しばらく学びを続けてきた人が、最近になって初めて自分の中の神への恐れや憎悪に触れたという話をしています。


充分に時間をかけて、しっかり学んできたからこそ、この人はそこまでこられたのです。そして、じっくり学んできたのなら、自分の中にその恐れを見つけても、そこでたじろがず、驚かずにいられます。もちろん、真剣に学んできた人々でも、時には、不意に大きな恐れに直面してしまったり、しばらくの間、抵抗を突き抜けていかなければならないというようなこともありますが、それでも、それまでに安定した実践の実績があるなら、ひどく圧倒されることなく、「なるほど、テキストに書いてあった通りだなあ」というように、余裕をもってそれを見ることができるようになっているはずです。そして、そのように対応できるようになるために、焦らずにゆっくり学んでいくことが理想的な学び方なのです。


もともと『奇跡講座』は、神の子が最初に神から分離した直後の神への恐れを、私たちが直接体験することを目指しているわけではありません。その微小な断片的側面が今の日常生活の中に表われてくる形に、少しずつ触れていき、それを癒していくことによって、今、平安を感じることを目指しているのです。(そして、それがいずれは幻想からの目覚めへとつながります。)


逆に、最初から神への恐れを実感しようとするなら、当然、抵抗に会います。それ以上先に進めないだけならまだいいのですが、時期尚早にこの恐れに触れてしまうと、大変な恐怖の体験になってしまったりすることもありますので、とにかく、ゆっくり正しいやり方で進むことが大切です。


以下のテキストの言葉は、このようなトラウマについて語っています。


しかし、このコースの後半のいくつかのステップは、神ご自身への直接的なアプローチを伴う。こうした後半のステップを周到な準備なしで始めることは賢明ではない。そのようなことをすれば、畏怖の念が恐れと混同されて、その経験は至福よりも精神的外傷{トラウマ}をもたらすようなものとなってしまう。癒しとは、最終的には神からのものである。その手段は丁寧にあなたに説明されていく。ときには啓示が到達地点を明かしてくれることもあるが、そこに到達するには手段が必要である。(T-1.VII.5:7-11)


・関連ビデオ:V#30「神への憎悪に触れる」
 

 

 
[2018年9月10日]

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