JQA #34: 「思考」についての質問
【質問】
「思考」ということについて質問させて下さい。
日々の生活を送っていますと、
さまざまな「思考」が 浮かんできます。
現在の、目の前の現象(出来事)を解釈、判断するため
の「思考」であったり
過去や未来の、現在ではない出来事に対する思いが、
まさに 現在の今この瞬間の新たな「思考」を
いろいろ 作り出したり・・・
なかなか 騒々しいのが「思考」なのですが・・・
奇跡講座を自学自習していますと、
「実は、思考は、わたしひとりでは 出来ないのではないか?」
と最近、感じています。
「思考」は、
(1)自我を教師とした、恐れの思考か
(2)聖霊を教師とした 、恐れ以外の思考か
とも、感じられるのですが・・・
そこで、質問です。
「思考」とは
わたし、ひとりで出来るものなのでしょうか?
わたし以外に教師がいて、教師を選ぶことによって思考が出来るのではないでしょうか?
【回答】
確かに、絶え間なく無数の思考が湧き上がってくるように見えていても、それらは必ず、二つの思考体系のどちらかに属していて、それ以外の種類の思考はないと、『奇跡講座』は教えています。
ご自身が自学自習する中で、このことを体験的に実感されたのであれば、それは貴重な体験ですので、それを大切にされるとよいと思います。
そして、その体験の中で生じてきたと述べておられる疑問、「自分ひとりでは思考できないのではないか」につきましては、ある意味では、「その通り」と言うことはできます。『奇跡講座』の中でも、二つの思考体系のどちらかに沿った思考をするということは、自我か聖霊かどちらかを自らの教師とすることである、というような表現が使われているところがあります。
けれども、このコースが教えていることの殆どが、言葉を使って完全に説明できる領域のものではないので、その説明は必然的に象徴的/比喩的な表現となっています。ということは、同じことについて別な説明の仕方をすることも可能なのです。実際、『奇跡講座』の中では、同じことがいろいろな形で説明されることがよくあります。それぞれの説明の仕方によって、別の側面や論点が明確になるからです。
そして、そのように様々な形で与えられている説明を総合的に捉えることができるようになってくると、立体的な理解が得られるようになります。
以上の観点から言えば、「思考とは、自我か聖霊かのどちらかの教師を選択することによってできることであり、自分ひとりでは、思考することはできない」というふうに捉えることは、もちろん可能であり、役に立つとはいえ、それだけを正しい理解の仕方と見なすと、融通が利かなくなり、理解に偏りが生じる可能性もあります。
例えば、「自分は、自我か聖霊という教師と一緒でなければ思考できない」と言うとき、その「自我」も「聖霊」も、「自分とは違う、別個の存在である」ということが暗黙の了解となっています。けれども、究極的には、「自我」も「聖霊」も、「自分」なのです。そのどれもが、同じ心の中の別々の側面にすぎません。ですから、私たちが「自我を選ぶ」とか「聖霊を選ぶ」と言うときも、実際には、同じ心の中の一つの部分が残りの二つのうちのどちらか一つに焦点を合わせる選択をする、という話をしているだけなのです。これらの部分に名前をつけて別々の存在であるかのように区別するとわかりやすくて便利なので、私たちは「自我」とか「聖霊」というラベルをつけて語りますが、それを文字通りの意味に受け止めて、それに固執してしまうと、思わぬ弊害が生じることもあります。
関連ビデオ「自我が私にそうさせた!」の中では、「自分」と「自我」と「聖霊」を別々の存在と捉えることにまつわるそうした弊害について語られていますので、そちらも参照してください。
[2018年10月20日]