JQA#38: 「二人」ということの意味
【質問】
ワプニック先生の動画を拝見させていただくようになり、「奇跡講座」は文字通りに単純に解釈してしまってはいけない箇所がいろいろとあることを学ばせていただきましたが、以下についてお教えいただけますでしょうか。
だが二人以上の者が一緒になって真理を探求するとき、自我はもはや自分に内容が欠けていることについて防衛できなくなる。(T-14.X.9:6)
これは、文字通り二人あるいはそれ以上の人間、という意味でしょうか。グループ学習などに参加せず一人で学んでいる私にとっては少し気になる記述です。もしくは特別な関係で、実は自分がこの関係を聖霊に委ねようと努力しているなら、相手が奇跡講座を学んでいなくても、「一緒に真理を探求」していることになるのかな、などとも思っていますが、いずれにしてもよくわからないので、お教えいただけると幸いです。
よろしくお願いします。
【回答】
『奇跡講座』は、究極的にはこの世界もその中の人間たちも実在していないと教えているわけですから、「他者」について語るときに重視しているのは、常に、「自分が他者をどう知覚しているか」ということだけです。実際にその人と行動を共にしたり、語り合ったりする間柄であるか否かということは重要ではありません。テレビのニュースで見ただけの赤の他人を自分がどう知覚しているかということに基づいて、赦しを行うことも可能です。ですから、「グループ学習などに参加せずに一人で学んでいる」ということは、このコースを学ぶ上で、何ら支障にはなりませんので、ご安心ください。
けれども、もちろん、私たちにとっては、世界の中の人々との関わりが、心の状態を映し出している〈教室〉となっていて、それをきっかけとして心に戻り、心を癒すという赦しの実践をおこなっていくことになるわけですから、その観点からは、普通の「人間としての他者」との関わりを赦すことを、その相手と一緒に真理を探しているといったような表現で描写することもできないことはありません。ですから、「自我の枠内」(C-in.3:1)で語られているこのコースの中には、そのような描写が使われているわけです。
でも、そのような「人間としての他者」を見ている次元で止まっているなら『奇跡講座』の赦しとはならないので、やはり、「自分 対 他者」という関係は、究極的には、心の中の関係として理解しなければなりません。
「心の中の関係」というのは、「私たちの心が分離の思考体系を選んでいるか、赦しの思考体系を選んでいるか」ということです。心の中で、神の子が自我に従っているなら自我との間に〈特別な関係〉があり、聖霊につながっているなら、聖霊との間に〈神聖な関係〉があることになります。
自我は、この「心の中の〈内容〉」(=分離か贖罪かという二つの選択肢)を私たちが見分けられないようにするために、様々な〈形態〉を作り出し、それらの間の差異が重要であるかに見せかけています。それによって、私たちが心の中を見ることができないようにしています。
だから、私たちが奇跡と赦しを通して、心の中の「神聖な関係」を回復することによって、「自分と対立する他者」という見方をしなくなり、「自分と他者は同じ」と見る心眼{ヴィジョン}で見ることができるようになるとき、自我はもはや、自分の虚偽(=「心の中の真の選択肢」という〈内容〉の隠蔽)を守り続けることができなくなります。
それが、ご質問の中で引用されていたこの文の意味していることです。
だが二人以上の者が一緒になって真理を探求するとき、自我はもはや自分に内容が欠けていることについて防衛できなくなる。(T-14.X.9:6)
[2019年7月9日]