JQA#7: 赦したと思った後で赦し方が気になる場合
【質問】
本日、大事な連絡をうっかり忘れてしまいました。しかし、気がついた時に「これは自我のシナリオでは起こるべき出来事だったのだから、ただ赦せばいいだけなんだ。その方が相手にも自分にも唯一必要なことなんだ」と思いすぐに穏やかな気持ちになりました。そして、連絡をしましたが特に問題もなくやり取りは淡々と終わりました。
しかし、5分ほどすると「その考えはただ怠慢なだけではないのか。自我のせいにして自分の失敗を見逃しただけではないのか。」という思いも浮かんできました。心を変えることだけが必要な事だと学んできたとは思うのですが、「自分の失敗」というものも自我の台本に必ず出てくるものであって看過するべきものとして見ていいのでしょうか。 「相手」に迷惑をかけたような形態であるとき「気楽に赦す」ということをしてもいいのかと時に考えます。
私がもっと普遍的に赦しをしていくためには「気楽に自分も赦す」ことが必要なことのように感じるのですが、出来ないときもあります。これについてどのように考えばよいのか、教えて頂ければと思います。
M.Y.
【回答】
ご質問に関連するFACIM Q&A が見つかりましたので、翻訳しました。FACIMの Q&A #85 をご覧ください。さらに、以下に少し補足します。 M.Y.さんの場合は、ご自分の失敗に気づいたとき、まずは赦しの実践を試み、いったんは穏やかな気持で対処することができたとのことですから、一度は聖霊を教師とすることを選んだということだと思いますので、QA#85の事例とはちょっと形が異なるかもしれません。
けれども、そのあとすぐに、自責の思いや色々な疑念がわいてきたあたりからは、Q&A #85の中で解説されていることが参考になると思います。
たとえば、ご質問の中で述べておられた「その考えはただ怠慢なだけではないのか。自我のせいにして自分の失敗を見逃しただけではないのか」という思いや、「心を変えることだけが必要だと学んだはずだが、他人に迷惑をかけるような自分の失敗を、気楽に赦してしまっていいのだろうか」などといった考えは、Q&A #85が言う「自我に役立つ様々な形の動揺」に該当します。
さらに、それらの考えから導き出された「気楽に赦すにはどうしたらいいか」という設問もまた、「気楽に赦すことはできない」という自責の念を無意識のうちに受け入れた上で、それに自分で対処しようとする試み(つまり、自我による解決法)である可能性は高いと思います。
こうした考えのすべてが、おおもとにある真の問題(=自我を選ぶという自分の誤った選択)を覆い隠しています。
赦しの実践においては、おっしゃるとおり、「心を変えることだけが必要」というのは確かなのですが、まずは「心を変える」とはどういうことなのかについて、よく理解することが必要です。そうしないと、心を変えているつもりでも、全然変わらない、ということが起こるからです。
「心を変える」というのは、心の中で、自我を選ぶことから聖霊を選ぶことへと移行するということですが、そのためにはまず、「心の中で自分が自我を選んでいる」ということに気づく必要があります。
けれども、このことを逆に言えば、私たちは普通はなかなかそれに気づかないし、気づくことは難しい、ということでもあります。
自分では「善意」や「誠意」だと感じられるので、とうてい自我が関わっているとは思えないようなことにも、微妙に自我が関わっている場合があります。
「では、どうやってそれに気づくのか」ということについては、『奇跡講座』が様々な角度から教えてくれています。「テキスト」の中の形態と内容の区別や、原因と結果の法則や、「心」の構造や、「特別な関係」などについての説明を、M.Y.さんご自身の以上の体験に関連付けて読んでいくと、きっと理解が深まっていくことと思います。
そうして、真に赦すことができたときには、外界の状況に関わらず、心の中には平安があるので、もはや「こういう赦し方でいいのだろうか」というような疑問は湧いてこなくなります。そして、そのときには、おそらく、「気楽に」赦すということも、もはや必要と感じられなくなっていることでしょう。
※上記の回答の掲載後、質問者のM.Y.さんから、以下の二つのコメントをいただきました。
◆最初のコメント:
適切な回答をありがとうございました。
常に赦しを実践していきたいと思っているのですが、
未だ自我を手放したくないと思う自分もいるのだと
改めて気づく事が出来ました。
気楽に赦せたらどんなにいいだろうかと望んでいるのに、
なぜそうなれないのかと苦しんだり、進歩していない
自分を分析したりしていましたが、今回の回答を
読み込んでやっと納得できたように思います。
正直に自分の想念を直視していくことは大変長い道のりの
ように思えて圧倒されますが、奇跡講座が共にいて助けて
くれる事を信じて疑わず、進んで行きたいと強く思いました。
ありがとうございました。 M.Y
◆数時間後の2つめのコメント:
先ほどメールしましたのに、再度の送信で申し訳在りません。
ご報告したいことがありましたのでメールさせて頂きました。
回答頂いた文章の中で、「さらに、…」の箇所を読んでいて
「…自分で対処しようとする試み…ということは、
それが自我による解決法であるなら
自分で 対処しようとしないことこそが、
聖霊に任せるということでいいのだろうか」と思った瞬間、
じわじわとわき上がる喜びを感じ、
本当に解放された自由な気持ち が持続しています。
ただ幸せな気持ちがあり、満たされていると感じます。
「奇跡講座」に出会えたこと、ジェイシムでこれからも
ご教授頂けることに感謝しています。
ありがとうございました。 M.Y
[2014年9月6日]