「夢を見ている者」についての〈レベルの混同〉
前回のワンポイント解説「睡眠中の電話のベル」(フロイトの「便宜の夢」)は、最初はこのJACIMサイト向けに書いたものではなかったため、本来はもっと詳しく説明できるのに省略した部分がありました。ですので、最も誤解されやすい点について、少しだけ、補足しておきたいと思います。
フロイトが述べていた「夢」というのは、この世界に生きている私たちが普通に睡眠中に見る夢のことですが、『奇跡講座』における「夢」というのは世界全体のことです。この世界は「実在しない幻想」であるという意味で、「夢」と呼ばれています。
ですから、その「世界という夢を見ている自分」というのは、「世界の中に生きている一人の人間」のことではなく、「心としての自分」のことであり、「人間としての自分」は、夢の中の登場人物にすぎません。しかも、『奇跡講座』では、「心」という概念自体も、普通に「心」と呼ばれているものを遥かに超える概念です。
このようなスケールの大きい話は、私たちにとって、理論的な概念としてなら、何とか理解できるとしても、「それをどう使うのか」という話になると、むしろ混乱をもたらすものになりがちです。
以下にご紹介する2つのQ&Aでは、そうした混乱を回避するための留意点について、説明されています。
『奇跡講座』が「私たちは、世界という夢を見ている存在である」と教えているとはいっても、赦しを学んでいる段階にいる私たちは、まだ、確実に、自分のことを「肉体をもった一人の人間」だと思っています。私たちがそう思い込んでいる限り、私たちの学びはそのレベルで始まるということを、忘れるべきではありません。
それを忘れると、〈レベルの混同〉という問題が起こります。
そうすると、本来は「罪悪感を手放していくプロセス」であるはずの赦しへの努力が、逆に罪悪感を強化するものとなってしまうことがあるのです。
そうした落し穴に陥らないように、以下の解説をご紹介しておきます。
(ここには部分的な引用のみを表示しますが、リンク先の全文も参照してください。)
【質問】No.64 (org.#375)
「訂正は下から上へ垂直に」(T-1.VI.3:3)とはどういう意味ですか?
【回答から一部抜粋】
・・・こうして、訂正の焦点は、物理的な世界における一個の肉体としての私たちが、現在経験していることの上に置かれます。
だからこそ、私たちは、階梯の一番下から一番上まで一気に駆け上がろうとして自分たちの肉体や物理的世界の生活を否定するようなせっかちな進み方には、厳重に注意している必要があるのです。もし私たちがそうしたことをするなら、それにより経験する癒しは、どれもみな短命に終わることになります。なぜなら、根底には罪悪感が存続するからです。
『赦すけど忘れない』(ケネス・ワプニック著)から
【質問7】への回答 (書籍版では、p66):
【回答から一部抜粋】
・・・あなたの経験の中であなたの車を運転している「自分自身」と感じられる人物は、 「自分以外の誰かが自分の車の後ろに追突する」という出来事を引き起こしたわけではありません。
心から見た場合は、人間としてのあなたは「夢の中の登場人物」であり、その観点においては全てが違ってきます。その心が、あなたの目の色や性別や髪の色や家族や、あなたが運転している車などを選んだ、ということになります。けれども、実用的なレベルでは、そのように考えることは助けになりません。ほとんどの人々にとっては、そのようなことは罪悪感を増幅させる原因にしかなりません。どこかで起こった地震や爆撃のニュースなどを見聞きして、自分がその発生に関与していると思い、それは自分で作りだした夢の一部なのだから自分はそれに責任がある、と感じるわけです。そのように考えるとき、レベルを混同しているのです。